大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

新型コロナウィルスがもたらした行動様式と、罪悪感との相似について。

新型コロナウィルスが現れた後の世界では、罪悪感を癒し続けることが非常に大切なことように思う。

 

それはとりもなおさず、自分の中の愛を見つめ続けるということでもある。

 

 

新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、いままで当たり前にできたことができなくなり、そして新しく求められる行動様式も多い。

 

・密を避ける

・人との距離(ソーシャルディスタンス)を取る

・自分が感染している前提で考える

・こまめに手洗いをする

 

感染症対策のために推奨されるこれらの行動は、これからしばらくの間、私たちの生活の中で必須事項となってくると思われる。

 

しかしよく見て見ると、これらの行動は、人が罪悪感を持ったときに無意識的にしてしまう行動とよく似ている。

 

「鶏が先か、卵が先か」ではないが、こうした行動を取っていると、罪悪感を覚えやすくなる。

 

ありがとう、と実際に口に出して何度も何度も言っていると、感謝の気持ちが湧いてくるように。

 

神社で手を合わせていると、不思議と何かに祈りたくなるように。

 

習慣化された行動は、それが当たり前であるがゆえに、その行動にともなう感情をも刷り込んでいく。

 

そう考えていくと、新型コロナウィルスのもたらした行動様式は、罪悪感を刺激する。

 

そこで浮き彫りになる罪悪感は、自らの愛の偉大さを見せてくれる。

 

 

私の周りの大切な人やお店も、コロナ禍の下で自粛や様々な対応を迫られている。

 

その中でも、いろんな対策を考えて試行錯誤しながら、営業努力をされている方がいる。

 

席数を減らしたり、換気をよくしたり、あるいはテイクアウトを試みてみたり…

 

先日、そんな努力をされている馴染みのお店に、陣中見舞いを持っていった。

 

大将は、丸椅子に座って、どこか疲れて浮かない顔をしていた。

  

売上のことや、今後の営業体制のことも、経営者として当然のことながら懸念はされているのだろう。

 

テイクアウトの準備を終えて、ほっとする時間帯だったこともあるだろう。

 

けれど、大将の口から出てきた言葉は、違っていた。

 

「なんかさ、みんな、そそくさと食べて出て行っちゃうんだよね。申し訳なさそうにしてさ。なんだか、こっちが申し訳なくなっちゃうよね」

 

美味しい食事を通じて、お客さんに安らぎや喜びを届けることを生業としている大将が、そう語る表情は、とても寂しそうだった。

 

 

大将のお店は、私自身を含めて、たくさんの人を笑顔にしていると私は思っている。

 

それは行きつけの身内びいきを差し引いても、そうだと思う。

 

「美味しかったよ」と笑顔でお会計をして帰っていくお客さんを、たくさんたくさん、私はカウンターの端っこでイカを炙りながら見てきた。

 

「しんどいやね」

 

そうつぶやく大将の表情は、初めて見たような気がした。

 

美味しいものを食べる喜びや感動、あるいは仲間との楽しい会話の時間を提供しているはずが、まるで罪悪感を配っているような感覚だったのかもしれない。

 

いえ、ここに来てくれたお客さんは、きっとみんな元気になってくれていると思います。

 

そう伝えたかった。

 

またお店に通うことで、それを伝えられたらいいと思う。

 

 

そんな罪悪感とは、何か。

 

それは、「自分は罪を負っている」、「自分は穢れている」、「自分は毒である」という感覚である。

 

それは、「自分は罰せられるべきである」と思うようになり、自分を傷つけ、苦しめ、しあわせではない状況を自らつくりだすようになる。

 

このあたり、以前に書いた書評である、『根本裕幸さん著「いつも自分のせいにする罪悪感がすーっと消えてなくなる本」に寄せて』に詳しい。

 

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この罪悪感というのは相当に曲者で、知らず知らずのうちに、その毒は全身に回り、さまざまな問題をつくりだす。

 

ハードワーク、犠牲、自分責め、金銭問題、人間関係、パートナーシップ…さまざまな場面で、この罪悪感の毒は、自分を傷つけるような行動を取らせる。

 

問題のデパート、いや問題の総合商社たるのが、罪悪感である。

 

そして、さらに厄介なことに、罪悪感はそれを持つ人自身を傷つけると同時に、周りにもその感情を伝染させる。

 

かくも罪悪感とは、厄介なものだ。

 

しかし、それは前掲の「罪悪本」では7つの分類をされているように、誰しもが大なり小なり抱えている感情でもある。

 

「密を避ける」、「人との距離を開ける」、「手をこまめに洗う」、「感染している前提で考える」…感染症対策となる行動は、人の持つそうした罪悪感を刺激する。

 

それは、新たに芽生えさせるというよりは、もとからあったものを、よりクリアにして見せてくれる、と表現した方が正確なのかもしれない。

 

 

では、感染症対策を緩めればいいのか、という訳ではない。

 

感染症とは、人類が歴史上ずっと抱えてきた問題の一つであり、今後もコロナウィルス以外の感染症が現れるかもしれない。

 

それは、疫学や医療の進歩の恩恵によって、つかの間忘れることができていた厄災の一つなのだろう。

 

そうではなくて、罪悪感の奥にあるものに目を向け続けることが、これから大切なことになるのだろう。

 

罪悪感の奥には、その人の持つ大きな愛が隠れている。

 

そこに目を向け続ける、ということ。

 

たとえ行動様式が変わったとしても、私たちはどうでもいいものには罪悪感を覚えることはない。

 

罪悪感を覚えるということは、それだけ大切なものである。

 

そして、罪の意識を覚えるほどに思い悩むということは、それだけ、その裏側には深い深い愛が隠れているから。 

 

感染させたくない相手。

罪悪感を覚える相手。

自分が毒であると思ってしまう場所。

 

そうしたものは、自分にとって非常に大切なものである可能性が高い。 

 

 

すべてのものごとには、必ず陰陽がある。

 

コロナウィルス感染症がもたらした、行動様式。

 

そしてそれによって刺激される、罪悪感。

 

それらは、自分のたいせつな愛を浮き彫りにしてくれるという恩恵を与えてくれるのではないだろうか。

 

罪悪感は愛の量に比例するのです。

だから、なにかに対して強い罪悪感を覚えるとき、その裏側にはそれと同じくらい強い愛があると考えられるのです。

 

根本裕幸「いつも自分のせいにする罪悪感がすーっと消えてなくなる本」 p.120,121

 

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