大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

無駄な時間の使い方。

無駄な時間の使い方とは、何だろうか。

 

それは、自分で選んでいない時間なのではないだろうか。

 

 

時間だけはお金で買えない、とよく言われる。

 

現代という時代において、お金よりも時間の価値が上がった、とも言われる。

 

誰にでも公平に、平等に与えられた資源である「時間」。

 

兎角忙しい現代に生きる我々は、それを無駄にしてはいけない、と感覚的に刷り込まれている。

 

行動こそが結果への唯一の道であり、そのために良質な情報を集め目的を定め、あとはトライアンドエラーを繰り返す。

 

何かを始めるのであれば、早ければ早いほどいい。

 

それは全く正しく、インターネットが情報というものの価値を破壊した現代において、ますます行動することの意味と大切さは重要さを増していく。

 

ところが、休む時間や何もしない時間を持つことに罪悪感を覚える。

 

そうすると、ケージの中のハツカネズミよろしく、倒れるまで走り回ることになる。

 

昨日のエントリーでも触れたデッドゾーンが口を開けて待っている。

 

いったい、無駄な時間の使い方とは、有益な時間の使い方とは、何なのだろうと考えさせられる。

 

 

実際、休みの時間というのは大切で。

 

ある生産的なことをしたら、同じだけ休息が必要なのだろう。

 

昼があれば、同じだけ夜があるように、それは陰陽の法則だ。

 

もちろん、夏至冬至もあれば、春分秋分があるように、それは移ろいゆくものなのだろうけれど。

 

それを無理矢理、昼を長くしようとすると、身体か、心か、どこかに不都合が生じる。

 

 

無駄な時間とは、自分の選択でない時間なのかもしれないと、最近はつとに思う。

 

こうしなければならない、という義務や観念だとか。

父親なのだから、妻なのだから、男なのだから、という役割だとか。

あれをしてもらったから、という犠牲だとか。

 

そういった自分ではない誰かや何かのために捧げる時間こそ、無駄な時間なのかもしれない。

 

何をするのか自分で決めていれば、行動しようが休もうが、無駄な時間ではない。

 

 

もちろん、100%すべての時間を自分の好きに決めることは難しい。

 

義務や観念や役割や肉体や罪悪感や犠牲や。

 

そんなスパイスがあればこその、この世である。

 

それを100%取り除くことは、誰にとっても無理な話だ。

 

ただ、その割合を増やしていくことはできる。

 

 

そのためには、やはり意識を「いま」に向けることだ。

 

悔いるような過去でもなく、憂うような未来でもなく、いまこの瞬間に意識を向けること。

 

いま、自分がしていることに自覚的になること。

 

いま、自分が感じていることに目覚めること。

 

字を書くこと。

ボールペンの感触を味わうこと。

ごはんを噛むこと。

空を見上げること。

 

いま、ここ、あるがままに。

 

f:id:kappou_oosaki:20191107110014j:plain

秋には紫と橙がよく似合い。

 

__________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2019/11/7

1.寄稿記事:「175,100m(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________