大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【853日目】 ~決めることと、あきらめること。

さて、断酒して853日目である。
2年と4か月、まあよくもっているものだと思う。

時に、しとしとと天地を湿らすような霧雨が振ると、断酒をした日のことを思い出す。

あの日も、小雨が降る日だった。
立冬もほど近くなった、霜月のある日。

自宅の近くの川沿いの、小さな橋の上で。
霧雨が舞っていた。
息子と娘が、ぽいぽいとパンの欠片を投げて、川のカメにエサをあげていた。

ぼんやりと、私はその光景を眺めていた。

髪がしっとりと雨に濡れるのを、感じていた。

お酒を止めてみよう。

ふと湧き上がった、そんな声に、従ってみようと思った。

なぜ、そんなことを思ったのか、よく分からない。
なぜ、その日、その瞬間だったのか、よく分からない。

なにしろ、仕事の関係の方と、前日も楽しく飲んでいたのを、よく覚えている。

身体にわるい?お金がかかる?二日酔いが嫌だ?時間がもったいない?
そんな理(ことわり)は、それまでさんざん理解し、考えてきたし、何とかしようと思ってきたことだ。

それなのに、なぜ、そのときだったのだろう。

中学生になりたてのころ、わたしの部屋にラジオがやってきた。

いまとなっては懐かしいカセットテープと、CDも再生できる、ミニコンポと呼ばれるような黒いオーディオだった。

中学生になると、英語の授業が始まる。

英語に慣れるためには、NHKラジオの中学生向けの「基礎英語」とかいう番組がいいと、どこかから聞いてきた私は、親に頼んでそのテキストを買ってもらった。

その番組が放送されるのは、平日の朝の6時から。

中学校は自宅から割と近かったこともあり、もう少し遅くまで寝ていても大丈夫だったが、せっかくテキストを買ってもらったのだから、と気合を入れて、毎朝6時に起きて聞くことを決心した。

しかし、何をしていても眠い思春期のころ。

最初の1回、2回は聞いたような気もするが、すぐに続かなくなってしまった。

朝6時になると、自動でラジオがオンになり、その番組が始まるのだが、それを寝床から無意識で止める所業も、すぐに慣れてしまった。

それを知ってかしらずか、親はテキストを毎月買ってくれた。

4月号、5月号、6月号…そのテキストの数が増えるたび、ほんのりとした罪悪感がわたしの胸に浮かんだ。

これはいかん、と思い立ち、説明書を頑張って読み、毎朝の放送をカセットテープに録音する設定をした。
朝起きれなくても、後から聞けるようにしておこう、と。

ところが、である。

録音はすれども、まったくそのテープを聞くことはなかった。
A面からB面に折り返し、さらにまたA面にもどり、もとの録音が消えていく日々。

テキストは、積まれていくばかりだった。

そのテキストの高さに罪悪感が刺激され、耐えられなくなって、ようやくわたしは親にもうテキスト要らない、と伝えた。

人は、決めただけでは、動かないのだ。

わたしのズボラな経験を一般化するのは気が引けるのだが。

強固な決心、決意、あるいは意志。
そうしたものでものごとを決められれば、かっこいいと思う。

けれど、歳と経験を重ねて思うのは、どうもそうとも言い切れないようなのだ。
それは、わたしの個人的な傾向なのかもしれないが。

冒頭の断酒の例を引くではないのだが、どうも「決める」というより、「あきらめる」という方が、ものごとが決まり、流れていくような気がする。

あきらめる、というと、どこかネガティブで後ろめたい感じを受けるのだが、そうでもないようだ。
あきらめる、諦める、とは「あきらかにする」という「あからしめる」という語源からくると聞く。
あきらめる、とは己を知り、相手を知り、世界を知るという、非常にポジティブな行為だ。

自分と語り、己を知り、自分と向き合い。
あくなき自己探求の末に、ぼんやりと姿を現す「自分」。

その存在がほのかにでも見えたとき、人はあきらめ、決めることができるのかもしれない。

その瞬間は、力ややる気がみなぎっているかというと、決してそんなことはなく、どこか脱力したような、肩が落ちたような感じがするのだ。

ああ、やはり、そうだったか。
あるいは、やはり、逃げられなかったか、と。

それを、振り返ってみたときに、決断とか、覚悟とか、肚をくくる、と表現することもできるのかもしれない。