大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

春霞、たなびきはじめて。

急に、暖かくなった。

20度近い気温にもなると、初夏を思わせる。
これだけ急に外気温が上がると、身体もどこか気怠くなるようで、ぼんやりとしてしまう。

時に、霞始靆/かすみはじめてたなびく。
その字のごとく、春霞がはじめてたなびき始めるころ。

ぴりっと張り詰めたような真冬の冷気は、もうどこにもなく。
氷が溶けるがごとく、ゆるやかな春の陽射しのように、ぼんやりとした陽気が感じられるようになった。

春。
そう聞くと、よろこばしいことを思い浮かべる。

けれど、陽あるところに、陰もあるものだ。
寄り添うように、背中合わせのように。

ねむりからのめざめ、あたたかでゆるやか、うれしい、たのしい。

そんな春だけれど、冬の間に溜めた毒気が出てくるものだ。

春になると、情緒が不安定になることが多いのは、生活環境の変化が多いこともあるが、そんなことからくることも、あるのかもしれない。

ふきのとう、こしあぶら、タラの芽、ノビル、セリ。

だからだろうか、苦みやえぐみが特徴的な山菜が、旬を迎える。
苦みやえぐみには解毒作用があり、冬のあいだに縮こまった身体に刺激を与えてくれると聞く。

毒が出ることを、厭わないことだ。

毒も、春霞も、よろこびも、梅花も、ただ流れていくものであり。
それを嫌い、押しとどめようとするから、ややこしくなる。

毒があることを、認めることだ。

ただ、それはあるだけ。
誰のこころの内にも、あなたのこころの内にも、わたしの内にも。

わたし自身は、春になると悲しい記憶を、どうしても思い出してしまうようだ。

ぼんやりとした春霞の景色は、痛みとともに想起される。

それも、また、浮かんでは消えていく。
どうこうしようと、しないことだ。

春霞が、たなびき。
そして、流れていくように。

どうこうしようと、しないことだ。

毒が、痛みが、苦みが、あることを認めること。

それは、この世界に自分が存在することを、認めることと、どこか似ている。

f:id:kappou_oosaki:20210223203813j:plain