大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【825日目】 ~飲み会の空気が、こいしく。

さて、断酒825日目である。

2年と3か月ちょっと。
ふとした思いつきからの断酒も、遠いところまできたものである。

特に体調面などには変化はなく、淡々と断酒を続けている。

しかし、心情的な部分で、ふと。
お酒の席の空気がなつかしく、恋しくなることがある。

なんとか宣言が、また1カ月延長され。
お酒を含む夜の会食をする機会は、また疎遠になりそうだ。

もちろん、望めばそういう機会をつくることもできるだろう。
けれど、総数として減る以上、それに遭遇する機会は減るのだろう。

習慣というものは、癖づくとなかなかやめられない。
けれど、一度やめてしまうと、これまたなかなか再開できないものまた、事実ではある。

部活の朝練のために毎朝早起きしていたのに、引退したとたんに、起きれなくなってしまうように。
変化は、時に不可逆だ。

飲酒、会食、飲み会、歓送迎会、宴会、帰りに一杯…
そうした文化は、なくなりはしないだろうが、個人的な、パーソナルなものにシフトしていくのだろうと感じる。

気の置ける、信頼のできる、こころゆるした、そういったつながりの人としか、飲食は難しくなるように思うからだ。

マスクを外して会食をする、という行為に対する心理的なハードルは、なかなか下がらないだろう。

飲みにケーション、あるいは接待と称されるような、お酒を注ぎながら、食事をしながら仲良くなるということは、もはや過去の遺物になってしまうのだろうか。

なくても問題ないのであれば、もともと必要ないものだったのかもしれない。

コロ助の騒動はそれを助長しただけで、時代はもともとその方向に向かっていたのかもしれない。

それでも。

時に、飲み会の空気、雰囲気、喧噪のようなものを、ふとこいしく思う。

それは、ワープロ、黒電話、土曜日の半ドン、ナゴヤ球場のライトスタンドといった、失われていくものへのノスタルジーと、似ているのかもしれない。

なぜかそれは、安い大箱の居酒屋で、妙に味の濃い唐揚げと、薄いビールに酔っ払って、笑っているイメージが、思い出される。

その空気が、妙に、こいしくなる。

マスクで表情も分からず、透明な板やアルコールで隔てられた世界線には、もはや存在し得ないのだろうか。

直近の世界規模の感染症危機だったと聞く、スペイン風邪が猛威をふるったのが、ちょうど大正時代のなかごろ。

そこから約100年。

人は、隔離と断絶よりも、接触する方を選んできた。

いまから100年後、また人は隔離よりも、接触する方向を選ぶのだろうか。

それはともかくとして。

いま、飲み会や会食が少ないのが、さびしいのだ。