朝日は、見えなかった。
予報通り、朝から冷たい雨が霧のようになり、空を濡らしていた。
これから熊野古道に向かうのだが、お天道様は見えない日になった。
2年半前に同じ熊野古道を歩いたが、そのときは気持ちよく晴れていた。
予報を見れば、ピンポイントで今日だけが雨。
晴れると思っていたが、予報は変わることはなかった。
新宮市から熊野川沿いに走る168号線を通り、本宮に向かう。
フロントガラスを叩く雨粒は、時間を経るごとに大きくなっていった。
本宮前発のバスは、貸し切りだった。
ハイシーズンとはいえ、雨中の熊野古道を歩こうとする人は少ないのかもしれない。
発心門王子前で降りると、神気のような霧があたりを包んでいた。
傘を叩く雨粒の音と、鳥の声だけが響いていた。
熊野古道は、いくつかのルートがある。
京から大阪・和歌山を経て田辺に至る、紀伊路。
伊勢神宮から回り込むようにして本宮に至る、伊勢路。
高野山から本宮に至る小辺路。
紀伊田辺と勝浦の那智大社をつなぐ大辺路。
奥吉野から紀伊の山中を縦断し、修験道の修行の道である大峯奥駆道。
そしていま私がいる、田辺から本宮に至る中辺路。
いずれも熊野三山を目指す、祈りの道である。
熊野古道には、たくさんの熊野の神さまを祀った社があり、参詣者はそれらを巡拝しながら旅を続けたという。
そんな王子社の一つ、「発心門王子」。
「発心」とは、菩提心が芽生え、仏門に入る決心を固めることを指し、かの藤原定家も参詣記を残していると聞く。
この発心門王子からが、熊野本宮の聖域とされるそうだ。
長い旅路を経て、この発心門王子の前で手を合わせると、多くの人のこころに菩提心が宿ったのだろう。
発信門王子を後に、古道を歩いていく。
雨は、相変わらず降り続いている。
あたりには、誰もいない。
どこか、異世界に迷い込んだような。
路傍の花の色が、夢からうつつへと引き戻してくれる。
雨に濡れて、どこか神秘的だった。
熊野は、「よみがえりの地」と呼ばれる。
よみがえり。
黄泉から、帰る。
熊野に詣でるということは、死と再生のプロセスなのかもしれない。
死と、再生。
分離と、統合。
破壊と、創造。
暗夜と、再誕生。
深き熊野の、鬱蒼と生い茂る木々。
そこから立ち上る神々の息吹のような霧。
その霧から連続したような曇天から降り続く、雨。
その雨、水は、地上のすべてのものを濡らし。
すべてのものが、混然一体となったようなその古道に身を浸していると、「よみがえりの地」そのものだと感じる。
善と、悪。
浄と、不浄。
罪と、愛。
男と、女。
時間と、場所。
今と、過去。
神と、人間。
生と、死。
霧の中ですべて混沌として、何もかも洗い流されていく。
足を止め、傘を叩く雨音に耳を傾ける。
いっそうと霧は深くなり。
どこを、歩いているのだろう。
いつか、誰かと。
歩いた、道。
その手を引いて。
水溜まりの形と、砂利の色に。
遠い遠い、過ぎ去った未来。
あるいは、未だ見ぬ、過去。
それはゆめか、まぼろしか。
いや、うつつこそ、ゆめのように。
霧の中に迷い込んでしまったのを、現世に戻してくれたのは「伏拝王子」だった。
長く厳しい熊野路で、初めて本宮の姿を拝むことができる地点であり、参詣者がみな「伏して拝んだ」とされる場所。
今日のところは、本宮は雨に曇って見えなかった。
けれど、そこに「ある」のだ。
晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて
月のさわりとなるぞかなしき
平安の昔、かの和泉式部がこの伏拝王子までやってきたのだが、にわかに月の障りとなった。
これでは念願の本宮参拝もできないと嘆き、詠んだ歌。
その夜、和泉式部の枕元に熊野権現があらわれ、歌を返したという。
もろともに塵のまじはる神なれば
月のさわりもなにかくるしき
この返歌を受け、和泉式部は無事に本宮に参拝することができたという。
この逸話自体が後世の創作との話も聞くが、それでもなお、熊野権現はどんな者にも寄り添うことの証左でもあろう。
浄・不浄にかかわらず、どんな者も受け入れる熊野権現の大らかさは、中世に「蟻の熊野詣」と呼ばれるくらいの盛り上がりを見せたと聞く。
この森の中を歩いていると、さもありなん、と思わされる。
混沌として混然一体となった、未分離のもの。
分離はドラマを生むが、もとはひとつだったのだろう。
伏拝王子前にある、ジブリ映画に出てきそうな茶屋で。
雨に冷えた身体に、染みわたるように美味しい。
現世に戻ってきたような感覚になる。
釣鐘のような、変わった形の花が咲いていた。
茶屋の女性が植えたと言っていた。
雨に濡れて、どこか憂いをもって。
雨は降り続いていた。
だからだろうか、大きな大きな土色をした蛙が、古道の真ん中に鎮座していた。
最初は岩かと思ったくらいの大きさに、慄きながらそっと脇を通る。
森の、主のように。
ぴくりとも動かず、雨に打たれていた。
路に咲く小さな色が、嬉しく。
祈りと、水と。
たまに見かけるその姿に元気をもらながら、歩みを進める。
よみがえりと、雨と。
花も、木も、人も。
等しく雨に濡れて。
林立する木々。
熊野の木々は、どこか、雰囲気が違うように思う。
全体としての意志のようなものが、あるように感じる。
古くから「仏の住む浄土」とされるのは、そうしたことからだろうか。
中辺路の道のりも終盤、ようやく見晴らし台に辿り着いた。
2年半前に訪れたときは、よく晴れていて、大斎原の鳥居を望むことができた。
ここに腰掛けて、しばらく目を閉じていたことを思い出す。
今日は、雨に曇る大斎原のようだった。
しばらく眺めていると、霧が晴れてきた。
はるか遠くに小さく見えるは、大斎原の鳥居。
また、ここから望むことができたことを、嬉しく思う。
ここに、来たかったのだと思う。
いつかの私が抱いた望みを、こうして叶えてあげることができて、嬉しく思う。
遠い過去か、ずっと先の未来か、いつ抱いたものかは、分からないけれど。
ここに来れて、よかった。
道中、茶屋以外で人と会うこともなかった。
この雨は、人払いだったのか。
雨で、よかった。
祈りと、よみがえりの道を終え、鳥居をくぐる。
雨の山道を歩いてきていたが、背筋が伸びる。
御祈祷の和太鼓の音が聞こえてきた。
本宮は、もうすぐそこだ。