大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

Threshold. ~2020年天皇賞・秋 回顧

20世紀に生きた、比較神話学の泰斗であるジョゼフ・キャンベル。

彼は、世界中の神話の中にある共通のパターンが存在することを見出した。
古今東西、世界の多くの国の文化、歴史を超えて、共通して立ち現れるこのパターンを、彼は「英雄の旅(Heroes and the Monomyth)」と呼んだ。

そのパターンとは、主人公がある日、天命に呼ばれ、別の非日常の世界へ冒険に出て、さまざまな試練や困難を経るとともに、かけがえのない仲間や師に出逢い、そしてついにその困難を克服し、そこで宝物を手に入れて、故郷に帰還する…という類型を取る。

キャンベルの「英雄の旅」に大きく影響を受けた、かのジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」のストーリーにその類型を参考にしたといわれる。

また、この「英雄の旅」を人の内面の成長プロセスの類型として捉える心理学もある。

その「英雄の旅」の中で、最初に訪れる困難が、天命に呼ばれた主人公が旅に出る決意をして、非日常へと一歩目を踏み出す地点である。

それを、「Threshold、境界線」と呼ぶ。
「Threshold」とは「敷居」のことであり、それを跨いで新しい世界に踏み出すというステップを指し示す。
そこでは、怖れ、不安、弱さ、怯懦…さまざまなネガティブな感情に襲われる地点でもある。

しかし、その「敷居」とは自分が設定した境界線に過ぎず、それを超えていくことで主人公は「英雄」への道を歩み始めるのだ。

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翻って、日本競馬にとって、芝GⅠ・7勝というのは、一つの「Threshold」であった。

「皇帝」シンボリルドルフが超えられなかったその壁は、21世紀の扉を開いてもなお、破られることのない記録だった。
「英雄」ディープインパクトが5歳も現役を続けていたら、というタラレバは酒の肴としては極上だが、されど記録として残る芝のGⅠの最多勝は7勝である。
そのほかに、7勝を刻んだテイエムオペラオー、ウオッカ、ジェンティルドンナ、そしてキタサンブラック。

稀代の名馬をもってしてなお、「皇帝」に並ぶまでで現役を退き、「7」の壁を超える優駿は現れなかった。

しかし、2020年。
無敗の三冠馬が牡馬・牝馬同時に現れるという奇跡の年に、その「Threshold」を超えんとする、アーモンドアイ。

桜花賞、優駿牝馬、秋華賞、ジャパンカップ、ドバイデューティーフリー、天皇賞・秋、そしてヴィクトリアマイル、重ねたGⅠタイトルは7つ。

初めて「Threshold」に挑んだ春の安田記念では、同じ牝馬のグランアレグリアに屈したが、最適距離と思われる2,000mの秋の盾で、その偉業を達成するか。

長い秋の盾の歴史の中でも、連覇を達成したのは2002年、2003年のシンボリクリスエスしかいない。

しかも、その2002年は中山での変則開催であり、東京開催での連覇となれば史上初となる。

それを阻止せんとするのは、GⅠ馬6頭を含む11頭。

2020年11月1日、伝統の秋の盾。

日本競馬の「Threshold」となる一戦のゲートが開く。

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アーモンドアイは五分のスタート。

外の11番枠から先手を主張したのはダノンプレミアムと川田将雅騎手。
それに好発を決めた東京巧者・ダイワギャグニーが続いて、第2コーナーを回っていく。
その後ろには、2017年菊花賞以来の復活なるかキセキと武豊騎手。

アーモンドアイは、その後ろにつけた。
絶好の位置だ。

その内の好位にダノンキングリー、そしてウインブライト、最内からブラストワンピース、それにジナンボー。
サンデーレーシングの勝負服の2頭が、その後ろから追走。
長距離GⅠ・3勝のフィエールマンと、宝塚記念で衝撃の5馬身圧勝のクロノジェネシス。
最後方から、カデナとスカーレットカラーといった態勢。

 

先頭のダノンプレミアムの刻むラップは、前半1,000mで60秒半ばあたり。
やはり確たる逃げ馬がいないせいか、昨年に比べると緩い流れでレースは進んでいく。

3コーナーを回り、徐々に馬群が縮まっていく。
直線を向いて、逃げるダノンプレミアム、それをキセキとダイワギャグニーが追う。

アーモンドアイは、馬場の真ん中やや内目から、ほぼ馬なりで上がっていく。

外からクロノジェネシスが追い上げてくる。
さらにその後ろから、フィエールマンの脚色がいい。

残り200m、ようやくクリストフ・ルメール騎手が右鞭を打つ。
素晴らしい脚色で先頭に立つアーモンドアイ。

しかし、クロノジェネシスとフィエールマンがさらにその後ろから脚を伸ばし、アーモンドアイに詰め寄る。
わずかに馬体が並びかけるかと思われたところで、アーモンドアイはゴール板を通過していた。

 

勝ちタイム1分57秒8。

追いつめて2着に上がったフィエールマン、そして3着のクロノジェネシスも、素晴らしい末脚を見せた。
GⅠクラスの2,000m戦としては緩やかなペースから、ともに32秒台という究極の末脚を披露してくれた。

しかし、直線半ばで先頭に立ち、それでも抜かせなかったアーモンドアイ。
その驚異の脚力、そして底力はまさに比類なきものだ。

史上初の、芝GⅠ・8勝目を達成。
稀代の名牝は、日本競馬史上唯一無二の存在へと、上り詰めた。

先週の福永騎手に続き、インタビューを受けるルメール騎手の目には涙が光っていた。

日本競馬の、「Threshold」を超える。
それが、当代随一のルメール騎手をして、落涙するほどのプレッシャーとなっていたことは確かだろう。
それを克服しての、偉業達成。

その涙は、どこまでも美しく、アーモンドアイの偉業に華を添えていた。

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Thresholdを超える、の図。