大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

記憶と感情の在りか。

記憶は、頭の中のどこか片隅にある。
感情は、心の中のどこかやわらかい場所にある。

本当に、そうだろうか。

時に、風に揺れる木の葉が記憶を預かっていても、不思議ではないような気もする。
時に、萎れた花弁に感情が宿っていても、それはそうだろうとも思う。

記憶、あるいは感情を、どうしたって個人的な領域でとらえてしまう。

この陰鬱な感じは、自分にしかないもので、あるいはこの切なくもほろ苦い記憶は、自分だけのものとして。

誰かの葉の痛みが理解できないように、自分のそれもまた分かりえぬものだ、と。

そうかもしれない。

けれど、そうでもないのかもしれない。

その胸の痛みは、いつか誰かが遺していった痛みなのかもしれない。
どこかで会ったような記憶を、風が運んできたのかもしれない。

いつか、だれかが、通った道。
いつか、だれかが、通る道。

その記憶、あるいは感情を、木や、風や、空や、あるいは一輪の花が、預かってくれているのだとしたら。

星の、記憶とでも呼ぶべきものだろうか。

もし、そうでなかったとしても。

いつか、どこかで会ったような気がする。

たぶん、どこかでその話をしたような気がする。

その痛みを、そして愛おしさを、ほんの、一瞬でも。

ほんの、刹那の間にも、共有できるような気がしたのだとしたら。

それは、字面通りの「有難い」ことなのではないか。

それが、喜びだったとして。

それを共感することを強いることも、押し付けることも、しなくてもいい。

ただ、純粋な自分の中の喜びとして、また風に預ければいいのだろう。

いつか、だれかが、また通るのだろうから。

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夕暮れも秋の色。