大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

灼けた肌が剥がれ落ちるように。

明らかに、雲の表情が変わった。

空の透明さが、増した。

うだるような外気温は、もうそこには無かった。

草むらから、チチチ、と涼やかな声がした。

もう、蝉の声はなかった。

「うわっ!おとう、何それ、キモッ!」

息子に気持ち悪がられて、肩から背中にかけての皮がめくれていることに気づいた。

先日、プールで油断して大いに灼けてしまった肌が、剥がれ落ちる。

夏の日差しをたっぷりと吸ったその肌は、役目を終えたように落ちていく。

そのカケラに、夏の思い出が詰まっているかもしれず、私はその剥がれ落ちた肌を見た。

息子は、怪訝な顔をしてこちらを見ている。

どこか、身体が重い気がする。

夏の疲れは、内臓に出る。

渦中にいるときは、意外と大丈夫なものだ。

境界線を越えたときに、「疲れ」を自覚することが多い。

それは、悲しみも、寂しさも、同じなのかもしれない。

動きやすくなったときこそ、ゆっくりと歩くべきなのだ。

ゆっくり、ゆっくりとで、いいのだ。

息子が大事に大事にしていたカブトムシが、一匹力尽きた。

幼虫から育てて、丸一年。

5月末にサナギから羽化したから、そこから3か月近くも元気に生きてくれた。

蛹室の形が悪かったのか、羽化した際にお尻のあたりの羽が、形状不良のまま固まってしまった。

息子と大丈夫かな、と心配したが、あまり影響なく長いこと生きてくれた。

もう昆虫ゼリーを替えることもない虫かご。

カブトムシが入ったままのそのケースを、息子は名残惜しそうに眺めている。

ゼリー、美味しかったのかな。

ぽつりと息子はつぶやく。

ああ、あんなに食べていたんだもの、きっと美味しかったんだと思うよ。

それ以外、答えようがなかった。

それは、どこか、祭りのあとのような。

どこか、同点に追いついた直後に、勝ち越しゴールを決められたような。

どこか、熱狂や興奮から冷めてしまったような。

夏の終わりは、いつも名残惜しく。

そして、物哀しく。

けれど、「かなしい」と「いとしい」は同じ語源のように。

秋が来る。冬が来る。春が来る。

かなしく、またいとおしい。

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