人の心の成長は、「依存→自立→相互依存」というプロセスをたどる。
これは、個人の心の成長においてもそうであるし、誰かや何かとの関係性においても、同じようなプロセスをたどる。
生まれ落ちたとき、何か新しいことを始めたとき、いままでと違う環境に身を置いたとき、人は「依存」の状態からスタートする。
文字通り誰かに依存しないと落ち着かず、自力で何もできない無力さを感じ、誰かに何とかしてほしいと願い、不安や怖れといった感情を感じやすい…そういった状態のことだ。
それは、お腹が空いてミルクがほしくても、泣くしかない赤子に例えられるかもしれない。
その状態は、自分という主体を誰かに明け渡していると同じで、辛く苦しいので、何とか自分の足で立とうとしていく。
自分であの面白そうなおもちゃを手に取るために、あるいは「おなかがすいた」ということを伝えるために言葉を覚えたり。
すなわち、誰かに頼らず自分で主体的に行動して、自分で世界をコントロールしようとする。
「自立」と呼ばれる状態に移行していく。
ところが、「自立」の状態には多くの問題が孕む。
自己を確立していくがゆえに、自分のやり方にこだわり過ぎて孤立を深めたり、あるいは「依存」の状態が辛かった反動で、頑張り過ぎて燃え尽きてしまったり。
誰かと比較・競争をしてしまいやすいのも、「自立」の状態に起こりがちな状態である。
それを手放して、相手や世界と調和して生きることもできよう。
「相互依存」、と呼ばれる世界である。
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このモデルは心の成長として捉えることもできるし、「親」「会社」「お金」「恋人」といった自分の外部との関係性においても、同じように捉えることができる。
何もかも親がやってくれた子ども時代から、反抗期を経て、お互いに一人の人として関係性を築いていく、というプロセスにも見ることもできるし、
あるいは新入社員として会社に入りどこかの部署に配属され、業務を覚えいろんな経験を経て社外を見たりして、会社と対等な関係性を築く、というストーリーに見ることもできる。
もちろん、必ずしも「依存→自立→相互依存」と一直線となることもなく、「自立」したかと思ったら、問題が起きて「依存」に叩き落されたりもする。
成長は、直線状というより、螺旋階段を昇るようだ。
いま、自分がどのプロセスにいるのか、を考えてみることは、非常に有益だ。
「依存」の状態にいるのであれば、自分を確立するために何かを行動し、頑張ってみるのが処方箋になる。
ただし、何か問題(異動、失職、失恋など)が起こって、「依存」の状態になってしまったばかりのときは、ゆっくりと羽を休めることが大切だが。
逆に、「自立」の状態にいるのであれば、少し手を抜いて休んだり、誰かの力を借りたり、助けを求めることが鍵になる。
自分でできることと、自分では何ともならないことの線引きをすること。
「人事を尽くして天命を待つ」「則天去私」「行雲流水」…それらの言葉は、そのような叡智を教えてくれているのかもしれない。
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さて、ここで毎日書き始めて三年間が経った。
書くことに対する考え方、感じ方、あるいはスタンスを振り返ってみると、やはり上に述べたようなプロセスをたどっているように感じる。
はじめは、やはり周りの反応が気になり、アクセス数が気になったり。
見てほしい、評価してほしい、褒めてほしい…そんなふうに感じることが多かった。
けれど、時を重ねるごとに、見てくださる方に、世界に、書くことで何を与えようか、ということを考えるようになった気がする。
いまは、先日書いたように、「ここにいます」という感じだろうか。
それは、愛してほしい、愛しています、ここにいます、というプロセスと似ているのかもしれない。
この先、そのプロセスがどう変わっていくのだろう。
それは、続けることでしか分からないのかもしれない。