大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

頑張って一人でどうにかする時代は、もう終わったんだ。

世代を越えて、つながれる遊びというものがある。

私と父の場合は、野球だった。
たまの父の休日にキャッチボールをして遊んだり、あるいは中日ドラゴンズの成績に一喜一憂し、ハレの日にはナゴヤ球場で観戦したりもした。

ナゴヤ球場で、父が居合わせた仕事の同僚と
「カープの先発はベップかぁ…ササオカならなんとかなりそうな気もするけど、今日はちょっとキツイかもしれないっすねぇ」
などと話しているのを聞いて、自分もその会話に入りたくて、背伸びをしていた気がする。

「野球」という言語を通じて、父とコミュニケーションを取っていたように思う。

そのコミュニケーションが成立するためには、私も父も、「野球」というもので遊んだ経験が必要である。

そのコミュニケーションツールは、時代とともに移り変わりゆくのだろう。
そのコミュニケーションの取り方も、また同じように、変わりゆく。

翻って考えるに、私と息子のコミュニケーションは、マリオが取ってくれているのかもしれない。

時代柄なのだろうか、それとも本人の嗜好なのだろうか、野球にはあまり興味を示さないようだ。

いまはすごい世の中になったもので、私が子どもの頃に遊んだゲームが、わずか数百円でダウンロードして遊べてしまう。

当時夢中になっていた小さな私は、まさか30数年後に息子と一緒になって遊ぶとは、夢にも思わなかった。

昔取ったナントヤラではないが、まだ上手いプレイを見せて、息子にドヤ顔をすることはできるようだ。

あと、ほんの1,2年もすれば、敵わなくなるのだろうけれど。

よくよく見ていると、同じゲームをしていても、小さかった頃の私と、息子では遊び方が違う。
息子は何というか、好きなコースややりたいところだけをやるのだ。

たとえば、あるゲームでは「隠しゴール」を見つけることで新しいステージに行けるのだが、息子や娘はインターネット・ネイティブらしく、「どこに隠しゴールがあるか、ネットでしらべて!はやく!」と急かしてくる。

「そういうのは、自分で苦労して探すから、見つけたときの喜びも大きいんだぞ」

と返すが、どこ吹く風、である。

自分で言っておきながら、こういう説教じみたコトバは、びっくりするくらい相手の心には届かないよなぁ、と思う。

自力で頑張ることが美徳とされた時代の遺物たる私と、答えなど探せばいくらでもあふれている時代の申し子たる彼らとの、世代間ギャップを感じざるを得ない。

はるか5千年前のエジプトのピラミッドか何かの遺跡の壁に、「最近の若いモンはけしからん」というような落書きが残されているように、それは人類がずっと抱えてきたギャップである。

そして、その世代間闘争は必ず若い方が勝ってきたことを、歴史が証明している。

若い世代の方が、優秀なのだ。

何の衒いもなく、「おとう、クッパをやっつけるとこだけやりたいから、そこまでやって!」とゲーム機を渡しながらお願いしてくる息子を見て、つくづくそう思う。

なかなか、小さな私には言えなかった台詞だ。

時代は、変わった。

頑張って、一人でどうにかする時代は、もう終わったんだ。

そう、強く思う。

父は、どうだったのだろう。
祖父と、何かで一緒に遊んだのだろうか。

娯楽の少なかったあの時代、そして食べるために昼も夜も働くことが当たり前だった時代、祖父と何かで遊んだことがあったのだろうか。

もし、そうした時間が少なかったとしたら。

息子と遊ぶ時間もまた、どう取ったらいいのか、分からなかったのかもしれない。

それを考えると、どこか切なく、胸が痛む。

そんなことを考えていると、「おとう、クッパにやられちゃったから、もう一回おなじところまでやって!」と再びゲーム機が差し出されてくる。

あぁ、と答えて、またそこまでの道のりを始める私。

それにしても若い世代は要領がよく、優秀だ。

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