感情とは、特別なものでもなく、ただ浮かび、ただ消えていくもの。
それは、生理現象のようにただ繰り返されるもの。
それが生まれることを拒むことはできず、それを感じることでしか流していくことはできない。
ところが、過去にあまりに悲しかったり、辛かったり、寂しかったりした経験があると、そうした感情を感じることを怖れて、感情を感じることを封印してしまったりする。
あるいは、感情を豊かに感じることを、誰かに非難されてたり、嫌われたりしたことで、それを禁じるようにしてしまうこともある。
いまはずいぶんと薄れてはきたが、「男は泣いてはいけない」という社会的な通念も、そうした一因になるだろう。
押しとどめたり、遮ったり、禁止したりして、感情を感じないようしてしまうと、感情は澱のように溜まっていく。
その沈殿した感情は、決してなくなることはない。
むしろ、感情とは天邪鬼なもので、見ないようにしていると、「こっちを見てよ!見てよ!おい、見ろや、この野郎!」とばかりに、どんどんとその声を大きくしていく。
その大きな声をさらに抑えようとするには、膨大なエネルギーを使わなければいけないことが容易に想像がつく。
沸騰寸前のぐらぐらと沸き立つやかんから、蒸気が漏れないようにするようなものだ。
機関車をも動かすようなそのエネルギーを、さらに強い力で押さえつけようとする。
そうすると、感情を抑えることにエネルギーが尽きてしまい、傍目にはエネルギーがまったくない無気力な状態に見えることも多い。
無気力に見える人とは、感情を抑え込みすぎている人の可能性がある。
出てきてしまったものは、流すだけだ。
怒り、寂しさ、悲しさ、無価値観、安らぎ、悔しさ…すべての感情に、善悪が在るわけでもなく、出てきたものは感じるほかにない。
感情とは、そういうものだ。
前置きが長くなりすぎた。
では感情とは、どこに溜まるのだろうか。
普通にイメージすると、感情を感じる場所、心に溜まるもののように思える。
では、心とは、具体的にどこなのだろう。
絶え間なくビートを刻んでいる心臓か、それとも脳の中のある一部分なのだろうか。
仮に、脳生理学なり脳化学といった分野が、感情を脳内物質の伝達として、ある化学式で解明ができるたとして、その物質なりの溜まり具合で、その人の溜め込んでいる感情を数値化できる日が来るのだろうか。
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ここのことろ、どうも感情が揺れる日があった。
何か揺れるような出来事があったかと言われれば、そうでもない。
なぜだろうと考えたとき、思い当たるのはストレッチの時間を長くとるようになったことだった。
朝晩、ゆっくりと自分の身体の具合と対話する内観の時間を取るようにしていた。
凝り固まっていた身体も、少しずつほぐれていく。
それと同時に、感情も流れていくのではないか。
とても心地よい温泉に入ったあとや、とても気持ち良いマッサージを受けたあとというのは、とても緩んでぼんやりする。
それは、映画やドラマで大泣きしたりして感情を動かした後と似ている。
身体感覚と、感情はつながっているように思う。
心が閉じて固まっていると、身体も凝り固まっているように感じる。
感情は、筋肉に溜まるのかもしれない。
身体と、心。
分けることはできない、不自由なもの。
どこか、それは種子と花との関係にも似ている。