思ったよりも早く着いた。
すでに夏の力強い陽射しが、熱田神宮の杜を照らしていた。
車のドアを開けた途端に、蝉の声がシャワーのように降ってきた。
午前中によく鳴く、クマゼミの声。
息子がいたら、大喜びするのだろうか。
朝の早い時間、人気は少なかった。
高い木の枝から降り注ぐ蝉の声は、やはりシャワーのようだ。
人気の少ない参道を歩くのは、瞑想に似ている。
玉砂利の音が、心地良い。
遠くで、ニワトリの鳴く声が聞こえた。
歩いていくと、その御姿が見えた。
堂々として、境内を歩きながら、朝を告げていた。
朝の陽射しが境内を包む。
どこか、その陽射しの中に秋を感じてしまい、切なくなる。
誰もいない拝殿。
ゆっくりと、手を合わせる。
アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。
20世紀に生きたドイツの哲学者、テオドール・W・アドルノは「文明批判と社会」の中でそう述べた。
アドルノは、ナチス・ドイツの所業を、ある特異点や何らかの失敗として捉えるのではなく、合理性と効率性を追い求める西洋文明の「帰結」であるとする。
すなわち、アドルノにおいてはアウシュビッツという「野蛮」を生みだしたのは、その対極と考えられがちな「文明」あるいは「文化」と考えられているものである、と。
それらの「文明」あるいは「文化」が引き起こしたアウシュビッツの後、その根本への批判が成されないならば、詩を書くことすらも、「野蛮」と言わざるを得ない。
当然ながら、ここでの「詩」とはアイロニーであり、文化・芸術、あるいは哲学を含めた人間の「理性」を指している。
75年前の広島を襲ったのも、また理性の権化ではなかったか。
ドイツにユダヤ系の出自として生まれ、ナチスの台頭を目の当たりにしていたアドルノの言は、私たちに「文明」、「文化」、あるいは「理性」への態度を再考させる。
21世紀に生きる私は、詩を書くことは赦されるのだろうか。
よく、晴れていた。
もう一度。
手を合わせて、祈ろうと思った。