梅雨が、明けた。
例年のよりも長かったが、それでも文月の終わりととももに、明けたようだ。
この7月、東京では全く雨の降らなかった日が一日だけだったと聞く。
この名古屋でも、一日の中のどこかで雨が降る日がずっと続いていたように思う。
なればこそ、葉月、夏の訪れを嬉しく感じる。
その夏の日差しを浴びたくて、いつもの川沿いを歩く。
薄い色の、小さな花。
面白い形の花弁をしている。
向日葵をはじめ、夏の花は極彩色のイメージが強いが、そうでもないようだ。
歩きながら世界をゆっくり眺めていると、いろんな発見があるものだ。
こちらも薄い色の、微笑み。
薄いピンク、あるいは撫子色というような淡い色。
朝顔というと、小学校の鉢植えが定番のイメージだが、路地ものを見たのは珍しい気がする。
夏の力強い日差しの下の、淡い色。
それはどこか、生命力とその終わりの、その両方を感じさせる。
陽中の陽たる夏至を過ぎると、どうしたって「陰」を感じやすくなるのかもしれない。
それは、事後の気怠さにも似ている。
桜並木の木々の間からこぼれる日差しを浴びながら、思う。
色、というものは不思議だ。
それは関係性と言語の間に宿る、世界の情感のようで。
だからこそ、私たちは数えきれないくらいの色の名前を持つのだろうか。
紅色と、薄紅色、韓紅色…何とかその色を表現しようと、名づけられた色の数。
悲しみ、情愛、諦念、口惜しさ、陰鬱さ…同じように、人の情感もまたそこに、在る。
その名と名の間で区切ることのできないものが、確かに存在することもまた、人の情感と似ている。
薄紅と撫子色の間に、その朝顔の色があるように。
いとしさとかなしさの間に、愛しさがあるように。
夏色、と呼びたくなるような色の空。