岡崎市を訪れたのは、いつぶりだろう。
同じ県内にあり、私鉄もJRも通っていながら、どこか遠いように感じる街。
遥か江戸の昔ならば、尾張国と三河国という、異なる国だったことも影響しているのだろうか。
旧三河国のちょうど中心に位置する中核都市であり、その人口は名古屋市、豊田市に続いて県内3位を誇る。
やはり、街を流れる空気感のようなものは、どこか質実剛健な三河気質を思わせるようだ。
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遅れてはいけないと、アポイントの時間よりもかなり早く着いたので、車を停めてあたりを歩く。
梅雨明けはまだ遠く、曇り空から雫程の雨が落ちて来ていた。
いまは本当に便利なもので、スマートフォンの地図を開けば、その土地や川の地名がすぐに分かる。
名前を知る、というのは不思議なもので、草花にしても何にしても、名前を知ると記憶に残るものだ。
世界を愛でる、一つの方法なのかもしれない。
この川は、乙川という名らしい。
その流れは、本流の矢作川と合流し、そのまま三河湾へと流れていく。
3か月前から進めてきた道筋の最終地点がここだと思うと、感慨深い。
まだ時間があるため、ゆっくりと歩く。
曇り空とはいえ蒸し暑く、汗が噴き出てくる。
橋のたもとに、本多忠勝の像があった。
生涯において出撃した50を超える戦で、傷ひとつ負わなかったという逸話を持つ、戦国最強と謳われる猛将。
生涯通じて徳川家康に仕え、江戸幕府開府の礎となった戦国武将。
この像は、「一言坂の戦い」で武田信玄からの追撃を受ける主君・徳川家康を護るため、殿を務めたときの御姿だそうだ。
この本多忠勝の働きにより、家康の本隊は無事に撤退することに成功。
武田側から「家康の家臣にしておくにはもったいない」と言わしめたと伝えられる。
その家康も、この岡崎市の生まれだ。
徳川300年の天下泰平の世を築いた傑物を生んだ風土に、想いを寄せる。
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以前に、愛知県の渥美半島に位置する田原市に赴任した知人がいた。
「齋藤専吉しかり、芸術に寄与する文化人を多く輩出してるんだよ、田原市って。やっぱりさ、こう広大な太平洋を毎日望んでると、そういう気質になるんだろうな。ちっぽけな悩みじゃなくて、こう、視野が大きくなるというか。かの芭蕉もここを訪れて句を詠んでるし。知ってたか?」
酒の肴に、そう言って笑っていたのを思い出す。
確かに、実際に私も田原市を訪れ、その茫洋とした太平洋の波を眺めていると、大いなるものに想いを馳せたくなったものだ。
故郷の、風景。
やはり、それはどんな人の心にも刻まれている、聖痕のようなものなのだろう。
この三河の風を受けて育った家康が、江戸300年の泰平を築くまでの英傑になったのは、興味深い。
無事に所用も済んだ帰り道、岡崎城のある岡崎公園沿いを通る。
残念ながら岡崎城は見えなかったが、趣のある松並木だった。
私の故郷の、川沿いの松並木を思い出す。
あの頃と同じ風が、今も吹いているのだろうか。