時に、大暑。
時に、土潤溽暑・つちうるおうてむしあつし。
一年の中で、最も厳しい暑さの時期。
…のはずが、どうしたことだ。
長引く梅雨に、なかなか青空は見えず、強い陽射しはどこへやら。
ようやく梅雨明けの声が聞こえ始めたが、関東以北の梅雨明けは8月以降になるという。
夏が、夏らしくない。
「夏成分」が、足りない。
それは、私にとって、何より寂しいことだ。
冷房要らず、涼しく過ごしやすい、熱中症の心配もしなくていい…
確かに、そうなのかもしれないが、どうにも夏成分が足りなくて、夏を恋焦がれる。
人情というのは、どうも天邪鬼なものだ。
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「今よりも、もっとこうなったら」
時に、人はそんな想いを抱く。
自分の性格が、こうだったら。
もし、自分の容姿が、もう少し違っていたら。
自分の出自が、もしこうではなかったら。
あるいは、自分の過去のあの出来事が…
誰しもが、そんな想いをふと抱いてしまう瞬間がある。
それは「いまの」自分への否定と結びついているのだが、だからといって、そうした想いを否定することは、否定のスパイラルに嵌ってしまうことになる。
「自己否定をする自分」を否定する、という高度な否定。
メタ否定、とでも呼べるのかもしれないその罠は、分け入っても分け入って深い森のように、なかなか抜け出せない。
自己受容の一歩目は、「自己否定する自分を肯定する」ということに尽きる。
自分に対して、「そうだよね、否定しちゃうよね、仕方ないよね」、と。
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その肯定は、小さな小さなもので、即効性はないかもしれないが、しかし確実に効く。
人は禁止されるとしたくなる。
「いまから、とても酸っぱい梅干しのことを想像しては、絶対ダメです!」
と聞いてしまうと、とたんに唾液が分泌されてしまうように。
「まあ、否定してしまっても、しゃあないわな」
と思てしまえば、それに囚われることも少なくなってくる。
自己受容の、小さな一歩目である。
これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である
月に降り立ったニール・アームストロング船長が語るところの「一歩目」に比するくらいの、大きな転換点だ。
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さて、その一歩目を踏み出して、進んだ先。
自己肯定を積み重ねていった先。
「自分がこうだったら」と考える理想を求めて、いろんな試行錯誤をしてみると、実はその「いまの自分」が、その理想に案外近いことに気づく。
いまの自分は、何も変えることなく、何も加えることなく、そのままで至高の存在。
そう感じるために、人は自らのこころの内面を旅する。
ニ長調の楽曲が、「ニ(レ、D)の音」で始まり「二(レ、D)の音」で終わるように。
生まれたときに世界から祝福されたように、自らを祝福するように。
始まりと終わりは、いつも同じ風景だ。
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なればこそ。
いまこの夏を、祝福し、味わうことに意義があるのかもしれない。
ぎらついた夏の陽射し。
生命の炎のゆらめきの中に、死の影を内包しているような、その光。
それを、待ちながら。
曇り空。なかなか夏の陽射しは見えない。