大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

何気なくしていることは、思ったよりもすごいことかもしれない。 ~セミ捕り戦記2020

夏である。

 

時候は「土潤溽暑:つちうるおうてむしあつし」。

 

熱気がまとわりつき、うだるような蒸し暑いころ。

 

長引く梅雨に、なかなか晴れ間が見えないので、「夏の成分」が足りないような気がするが、それでも蒸し暑さは格別である。

 

息子にとっては、カブトムシ、クワガタ、そしてセミの、夏。

 

今日も今日とて、朝のほんのわずかに雨が降りやんだ時間を見計らって、セミ捕りに駆り出される。

 

昨日は朝、昼、夕方の都合三回戦、成果はクマゼミ2匹、アブラゼミ3匹の計5匹。

 

木々の枝をずっと見上げているので、さすがに肩が凝った。

 

今日はダブルヘッダーくらいで見逃してもらえるのだろうか。

 

肩を右手で揉んでいると、早くいくぞ!と急かされる。

 

タモと虫かごを手に、いそいそと外に出る。

 

 

思えば、小さな私にとって、セミ捕りというのは夏の「習慣」として当たり前のようにあった。

 

父母ともに働いていたので、夏休みの日中は、祖母の家に世話になった。

 

通っている小学校と学区が違い、一緒に遊ぶ友だちもいなかった。

 

来る日も来る日も、近くの公園でタモを振り回していた。

 

捕れるのは、もっぱらアブラゼミか、少し小さなニイニイゼミ

 

お盆が過ぎると、羽根が透明なツクツクボウシが出てくる。

 

セミは、飼育ができない。

 

捕まえたら、また空に向けて放すだけ。

 

あの頃は、クマゼミはいなかった。

 

二十年以上も経って、生態系も変わっているのだろうか。

 

昨今のような、「命の危険」を感じるほどの暑さではなかった当時、子どもが外で一人で遊ぶことは普通だったように思う。

 

あのころから、一人遊びが上手かったのかもしれない。

 

球技も、かけっこも苦手だった私が、息子に教えられるのは、セミ捕りくらいのものだ。

 

 

そう思っていたら、どうやらセミ捕りというのは「当たり前」ではないらしい。

 

人と話していると、その「当たり前」が「当たり前」でないことに気づく。

 

「え?セミって、あの鳴いているセミですか?そんなん、どうやって捕まえるんですか?だいたい、見つけられないじゃないですか?」

 

いや、それは、よく見ていると…見つけれるじゃん?

 

それをさ、こう、タモで…セミは上へ飛ぶから、タモを上からかぶせるようにして、動かさないでいると、勝手にセミがタモの中に…

 

こう説明していても、なかなか伝わらない。

 

どうやら、それは「当たり前」ではないらしい。

 

どうやら、私たちが何気なく、「当たり前」にしていることは、思ったよりもすごいことかもしれない。

 

つくづく、人に話すということは、自分の中の「当たり前」の概念を破壊してくれる。

 

「当たり前」が「当たり前」でないように見ること。

 

それを、「価値を見る」と言い換えることもできるのだろう。

 

 

鳴き声を頼りに、木々の枝に目を凝らす。

 

桜並木を、一本一本、舐めるようにして見て歩く。

 

シャーシャーとクマゼミの合唱は聞こえるのだが、姿は見えず。

 

一匹見つけたが、とんでもなく高い位置にいて届かない。

 

鳴くのは、オスだけだ。

 

したがって、メスは静かに木々の枝に同化している。

 

目を凝らして、木々の肌をまじまじと見る。

 

だが、なかなか捕まえられる高さにセミは見つからなかった。

 

何度も何度も、桜並木を行ったり来たり。

 

すぐに鬼軍曹になる息子も、今日は木の枝を舐めるように眺めている。

 

午後からは大雨の予報だ。

 

その前に、何とか一匹、捕まえられないだろうか。

 

あの橋のところまで、もう一往復してみるか。

 

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