夏である。
時候は「土潤溽暑:つちうるおうてむしあつし」。
熱気がまとわりつき、うだるような蒸し暑いころ。
長引く梅雨に、なかなか晴れ間が見えないので、「夏の成分」が足りないような気がするが、それでも蒸し暑さは格別である。
息子にとっては、カブトムシ、クワガタ、そしてセミの、夏。
今日も今日とて、朝のほんのわずかに雨が降りやんだ時間を見計らって、セミ捕りに駆り出される。
昨日は朝、昼、夕方の都合三回戦、成果はクマゼミ2匹、アブラゼミ3匹の計5匹。
木々の枝をずっと見上げているので、さすがに肩が凝った。
今日はダブルヘッダーくらいで見逃してもらえるのだろうか。
肩を右手で揉んでいると、早くいくぞ!と急かされる。
タモと虫かごを手に、いそいそと外に出る。
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思えば、小さな私にとって、セミ捕りというのは夏の「習慣」として当たり前のようにあった。
父母ともに働いていたので、夏休みの日中は、祖母の家に世話になった。
通っている小学校と学区が違い、一緒に遊ぶ友だちもいなかった。
来る日も来る日も、近くの公園でタモを振り回していた。
捕れるのは、もっぱらアブラゼミか、少し小さなニイニイゼミ。
お盆が過ぎると、羽根が透明なツクツクボウシが出てくる。
セミは、飼育ができない。
捕まえたら、また空に向けて放すだけ。
あの頃は、クマゼミはいなかった。
二十年以上も経って、生態系も変わっているのだろうか。
昨今のような、「命の危険」を感じるほどの暑さではなかった当時、子どもが外で一人で遊ぶことは普通だったように思う。
あのころから、一人遊びが上手かったのかもしれない。
球技も、かけっこも苦手だった私が、息子に教えられるのは、セミ捕りくらいのものだ。
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そう思っていたら、どうやらセミ捕りというのは「当たり前」ではないらしい。
人と話していると、その「当たり前」が「当たり前」でないことに気づく。
「え?セミって、あの鳴いているセミですか?そんなん、どうやって捕まえるんですか?だいたい、見つけられないじゃないですか?」
いや、それは、よく見ていると…見つけれるじゃん?
それをさ、こう、タモで…セミは上へ飛ぶから、タモを上からかぶせるようにして、動かさないでいると、勝手にセミがタモの中に…
こう説明していても、なかなか伝わらない。
どうやら、それは「当たり前」ではないらしい。
どうやら、私たちが何気なく、「当たり前」にしていることは、思ったよりもすごいことかもしれない。
つくづく、人に話すということは、自分の中の「当たり前」の概念を破壊してくれる。
「当たり前」が「当たり前」でないように見ること。
それを、「価値を見る」と言い換えることもできるのだろう。
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鳴き声を頼りに、木々の枝に目を凝らす。
桜並木を、一本一本、舐めるようにして見て歩く。
シャーシャーとクマゼミの合唱は聞こえるのだが、姿は見えず。
一匹見つけたが、とんでもなく高い位置にいて届かない。
鳴くのは、オスだけだ。
したがって、メスは静かに木々の枝に同化している。
目を凝らして、木々の肌をまじまじと見る。
だが、なかなか捕まえられる高さにセミは見つからなかった。
何度も何度も、桜並木を行ったり来たり。
すぐに鬼軍曹になる息子も、今日は木の枝を舐めるように眺めている。
午後からは大雨の予報だ。
その前に、何とか一匹、捕まえられないだろうか。
あの橋のところまで、もう一往復してみるか。