大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

書き手冥利と、書く怖さについて。

先日寄稿したウマフリさんへの記事に、ありがたい感想をTwitter上で見かけた。

こういうのを、書き手冥利に尽きる、というのだろう。

ありがたい限りだ。

これでウマフリさんへ寄稿させていただいた記事は19本目になるが、回数を重ねることで、少し見えてくるものもある。

最初は、無我夢中に、好きなことの延長線でやれた。

それが、あるときふと気づくと、大海の真ん中で、寄る辺なく漂っているように感じる。

あれ、いつの間にかこんなところに来てしまった。

ひょっとして、知らないうちにとんでもないところに来てしまったのではないか…

「怖い」という感情を覚える。

それは、やはり周りとの比較から芽生える。

自分より、もっと詳しい人がいる。
自分より、もっと上手い人がいる。
自分より、たくさん評価されている人がいる。
自分より…

とたんに自分が、とんでもなくちっぽけな存在のように思えてくる。

怖くなる。

苦しくなる。

書けなくなる。

周りとの比較は、自分の矮小なプライド、すなわち無価値観がもたらす。

比較しなければ、優れていなければ、数が多くなければ、勝たなければ、存在する価値がないという、思い込み。

だから、

背伸びしようとする。
リアクションを欲しがる。
自分でない何かになろうとする。

そうして、自分がいなくなる。

そこに現れるのは、無味無臭な、魂の抜け殻だ。

そんなものには、だれも見向きもしない。

好きでしていたことのはずなのに、苦しい。
自発的にしていたことなのに、受け身になる。
何かを伝えたいはずなのに、こころは空っぽになる。

書くことは、こんなにも苦しかったのか。

その苦しさに悶えていると、見えてくるもの。

その空っぽなこころの底に、微かに残った澱のようなもの。

それこそが、きっと自分の背骨の一部なのだろう。

自分だからこそ、書ける文章。

自分にしか、書けない文章。

たとえ一文でも、一文字でも。

それが書けたときに、不思議とこころは満たされる。

周りの反応が、気にならなくなる

もちろん、そんなプロセスを通らない人もたくさんいるだろう。

私の場合は、というごくごく個人的なプロセスだ。

感想は、ときに書き手にいのちを吹き込む。

されど、種火は書き手の中にある。

それは、逆ではない。

ということで、その寄稿記事がこちら↓

uma-furi.com