誰にも頼まれていなくても、それが一銭にもならなくても、なぜか続けてしまうもの。
そうライフワークを定義するのならば、「暑中見舞い」というのは私のライフワークかもしれない。
いつからか年賀状は自分から出さなくなってしまったが、暑中見舞いはなぜか続けている。
暑中見舞いにしても残暑見舞いにしても、寒中見舞いにしても、何気ない日にひょっこり届くと、嬉しいものだ。
ふとしたある日、ポストを開けると、ゴシックや明朝体で印刷されたチラシや請求書の中に、手書きの葉書が一枚見つかる。
何ともほっこりして、嬉しい。
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だからという訳でもないが、書くときは、宛名も本文も、すべて手書きで書く。
お送りする方の名前を書きながら、その方を思い浮かべてみたり。
キーボードに向かって書くこともいいのだが、一文字一文字を書いていく時間は、やはり格別である。
たしかに時間はかかるのだが、その時間はどこか瞑想やランニングといった時間に似ている。
ありがたいことに、日本には四季があって。
その折々に触れて、大切な人を想いながら、綴る。
なんとも素敵な文化だ。
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昨今は、メールなりSNSなりで簡単につながれてしまうし、個人情報の問題もあり、なかなか住所というものを知る機会が少ない。
私が小学生の頃、クラスメイト全員の住所・電話番号が記載された緊急連絡網や、ほとんどの家の住所・電話番号が載っていたハローページが存在したが、いまから考えると隔世の感がある。
連絡を取ることだけを考えるのであれば、メール、SNSで十分なのだろう。
けれど、手書きの暑中見舞いには、それに替え難い魅力が、私にとってはあるのだ。
既読がつくこともないし、時間もお金もかかるのだけれど。
それでも、好きなのだ。
瞑想中の図。