誰しもが、自らの望みを叶えたいと願う。
だからこそ、願望実現や目標達成のハウツーなりが、いつの時代も求められる。
そう考えると、スピリチュアルな引き寄せであれ、ゴリゴリの外資系コンサルによるKPIなりの管理であれ、それほど大差がないように感じる。
そのいずれもに、どこか卑屈さと胡散臭さを感じてしまうのは、私が目標を設定するのが苦手だからか。
それとも、ある意味で未来に対して絶望しているからだろうか。
あるいは、目標設定~達成に精を出すことに、誰かと競争してしまい、その螺旋を降りてしまっているからだろうか。
未来のことは、誰にも分からないと、心底思う。
だからこそ、生きることに価値があるとも言えるのだが。
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何がしかの目標を達成することは、ある種の困難をともなう。
精度の高いロードマップと、それによる中間指標を持ち、それを継続的にモニタリングして修正していく、不断の努力が求められる。
その努力が続かなくなる大きな要因の一つが、ロードマップの先にある到達点に対しての疑いである。
その到達点で待っているのは、ほんとうに自分が望んだものなのだろうか?
ほんとうに、自分はそれがしたいのか?
3歳児よろしく、ただ単に自分の持っていない玩具を、隣の子どもが持っているから「それが欲しい」と、欲求なり願望が喚起されただけなのではないか?
あるいは、自分ではない「親」や「時代」、「社会」あるいは「歴史」が規定した、何がしかの幻想を、自分の目標として刷り込まれているだけではないか?
こうした問いに対して、明確に「否」と答えられる人は、なかなか少ないのだろう。
そう、目標は達成する以上に、設定することが難しい。
その目標は、ほんとうに自分が望んだものなのか?
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だからこそ、自分の心の声に耳を澄ませろ、と多くの偉人は語る。
身体、あるいは微細な感情をもとに、自らの心の声を聴け、と。
多くの幻想は「思考」から来ている。
アクションスターの台詞よろしく、「考えるよりも、感じろ」と。
雁字搦めの「思考」を紐解き、ただゆるくゆるく揺蕩う。
自らの心の中に、深い闇へとつながる穴があることを認める。
その宿痾のような穴を、塞ぐのではなく、ただその暗さの中に在ること。
そうすることで、ゆっくりと、ごくゆっくりと想起してくるものがある。
ごく小さな小さな、望み。
それは、ある人に会いたい、という望みかもしれない。
それは、しばらくごろんと横になっていたい、という望みかもしれない。
それは、空を眺めていたい、という望みかもしれない。
それは、ただ白湯を飲みたい、という望みかもしれない。
それは、ほんの小さな小さなものかもしれないが、その小さな小さな声を、掬い取り続けるということ。
それが、ほんとうの自分の望みを知る方法だ、と。
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さて、ここまで進めた上で、そもそも論としての話に戻る。
果たして、自分の望みを知ることが、そんなに大切なのだろうか。
その「自分の望み」とは、前述したような「つくられた望み」と、何が違うのだろうか。
たとえば、以前にここでも紹介した「サピエンス全史」においてユヴァル・ノア・ハラリ氏は語る。
幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇望するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。
サピエンス全史(下巻) p.239
ユヴァル・ノア・ハラリ著、河出書房新社
キリストや孔子といった過去の偉人と同じように、ブッダもまた自ら言葉を書き残すことを一切しなかった。
今日伝えらているのは、彼らの周りが「子曰く」と書き伝えていったものだけであり、すべては二次情報である。
それでも、ここでハラリ氏が書いている、ブッダが教え諭したのは、内面の追求もまた、外部の成果の追求の合わせ鏡に他ならない、ということは、非常に重く感じられる。
外側に置いた目標のみならず、内面の追求もまた止めよ、と。
もし、このブッダの言う通りなのであれば、目標なき中、人はどう生きるべきなのだろうか。
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いや、どう生きる「べき」という時点で、すでに何かに囚われているのかもしれない。
いつか見た故郷の空に、ただ、雲が過ぎ行くように。
いつか見た故郷の川に、ただ、川の水が流れゆくように。
それで、いいのかもしれない。
願いも、望みも、目標も、なくてもいい。
ただ、揺蕩うように。
ありのままを、ただそのままに。
そうしていると、時に誰かの望みを叶えていることもあろう。
流れるように、過ぎ行くように。
ただ、そのままに。
行雲流水。空を往く雲と、流れる水のように。