ある仕事の質は、その人の人格に比例するという観念を、私は持っていることに最近気づいた。
それは、仕事でも当てはまるし、言葉、作品…その人からアウトプットされるもの全般に対して、そう思っている。
「いい作品は、いい人がつくる」、と。
行き着く先は、聖人君子か、神さま仏さま、か。
ところがどっこい、私はこの三次元の生々しい世界に生きている。
単一民族である日本人は、「意見」と「人格」を切り離すことが苦手だと言われる。
その人の「意見」を否定することは、その人の「人格」を否定しているように受け止められやすく、それを切り離すことが難しいからだ。
当たり障りのない議論に終始して、その場の空気でものごとが決まっていったりするし、あるいは議論ではなくて人格攻撃になってしまいやすい。
だから、自己のアイデンティティを主張しなければ生き残れなかった多民族の欧米に比べて、ディスカッションをする文化がない、と。
それは、日本人の持つ「言霊信仰」も影響しているのかもしれない。
言葉というのはそれ自体が霊力を持つと考えられているので、なおさらその人の「言葉」を否定することは、その人の「人格」を否定しているように捉えられてしまう。
「意見」「言葉」「作品」といった、その人からアウトプットされたものは、その人本人とは切り離して考えるべきなのだろう。
そうしなければ、先に述べたように聖人君子か、神様仏様のような人しか、表現が認められないことになる。
考えただけでも、それは息苦しくて、窒息しそうだ。
私生活がハチャメチャだろうが、何だろうが、アウトプットされたものとは何も関係がない。
一昔前には二日酔いでマウンドに上がって完封するプロ野球選手もいたと聞くし、
多くの人の心を揺らす作家のグシャグシャな私生活はよく聞くし、
混迷の中でピストルで自分の頭を打ちぬいた画家の描く絵はウン十億の値がつく。
だからどうだ、ということでもないが、仕事の質と、その人の人格は何も関係がない。
そもそも、その「いい」「悪い」という判断自体が、己が内なる傷がつくりだす幻想だ。
目に映るものに、「いい」も「悪い」もない。
この観念は、どこから持ってきたのだろう。
思春期に誰しもが持つ「理想主義」あるいは「完璧主義」だろうか。
それとも、親、ひいては時代の持つ観念を引き継いでいるのだろうか。
それは分からないが、必ずしもその観念が正しくないとは思う。
簡単には手放せないとは思うが、気付いただけでも大違いだ。
そのマイルールを自分に、他人に押し付けなくなる。
仕事の質と、その人の人格はリンクしない。
無理に整えようとしなくていい。
取り繕うとしなくてもいい。
もっと、自由に。
それはとりもなおさず、濁を、受け入れよ、ということかもしれない。
濁、とは。
己が醜さ、弱さ、脆さ、汚さ、矮小さ、いやらしさ。
もしくは理不尽、あるいは不条理とよばれるもの。
理不尽を、愛することを教えてくれた令和元年のダービー。