大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

関係性の順番 ~人と人の関係性は、シーソーのように。

永遠に続く冬がないように、過ぎない春もまた、無い。

消えては生じる輪廻のように、あるいは運命の火車のように。

すべては順番にめぐり、すべては繰り返す。

人と人の関係性もまた、そのような順番の中にある。

教師と、生徒。

上司と、部下。

惚れる側と、惚れた側。

リーダーと、フォロワー。

子どもと、親。

自立している側と、依存する側。

どのような関係性であれ、その関係性が続くのであれば、各々の立場はいつか入れ替わる。

教えていたのに、いつの間にか教えられていた。

向こうが熱心だったはずなのに、いつしか自分が執着している。

引っ張られているうちに、気付けば先導する立場に。

あんな親にだけはならないと思っていたのに。

頼りにしていたはずなのに、いつの間にか物足りなく見えてしまった。

それは、関係性の成熟のサインであり、また関係性が壊れる危険性を孕む瞬間でもある。

いままで優位的な立場にいたはずの側が、その立場の逆転に耐えかねた場合。

そして、

いままでフォローに回っていた側が、新しい世界を観てそれに惹かれてしまった場合。

それは別れ話になり、疎遠になり、あるいは絶縁になったりする。

いずれの場合も、それまでの立場がひっくり返るとき、その関係性は終わりを告げる契機になる。

けれど、よくよく考えてみれば。

別れ、疎遠、絶縁したところで、関係性は終わらない。

たとえ今生の別れがあったとしても、それは関係性の終わりを意味しないのかもしれない。

幼い私は、シーソーを「ぎっこん、ばったん」と呼んでいた。

父方の実家の近く、大きな川が流れる公園で、日が暮れても遊んでいた。

身体が浮いたかと思えば、すとんと落ちる。

すぐに、また身体がぐっと浮いて。

私の反対側に座っていたのは、誰だろう。

祖母だったのか、それとも、姉だったのか。

人と人の関係性は、シーソーのように。

惚れられた側にふわふわと座っていたと思えば、いつの間にか惚れた側にドスンと落ちる。

安心して教えられる側に座っていたのに、気付いたら教える側にぐいっと浮いたりする。

季節が巡るように、輪廻の車輪が回り続けるように。

それは繰り返す。

幼い私は、ちょうど中間で、ふわふわと浮いている状態に、どうにかしようとする。

座る位置、身体の向き、体勢を、調整しながら。

ちょうどバランスが取れる地点が、確かにあった。

人と人の関係性も、同じで。

ちょうど、バランスが取れる状態が、確かにあるのだろう。

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過ぎ行く春、咲く春。