さて、断酒も517日目である。
もう1年半近くになったが、淡々と断酒を続けている。
飲みたいと思うこともたまにあるが、我慢するというわけでもなく、「まぁ、今日はいいか」というような感じで飲まないでいる。
私がお酒を飲み始めてから、断酒をするまでに18年ほどの時間があった。
そう考えてみると、まだ1年半か、とも思ってしまう。
この先、さらに断酒を続けることで、また何か心身に変化があるのだろうか。
それは分からないが、その日その日の心持ち、そして決断を大切にしたいと思う。
飲んでも、飲まなくても。
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以前に何度か書いたような気がするが、ある選択で悩んだとき、そこに正解はない。
悩む、という事象は、自らがコントロールできないことをコントロールしようとすることから生まれる。
不確実な未来をコントロールしようとする、不可能性。
それこそが、悩みの本質なのかもしれない。
目の前の生ビールを飲むのか、あるいは飲まないのか。
この会社を続けるのか、それとも辞めるのか。
この赤い服がいいのか、それともこっちの服がいいのか。
この人と別れるのか、それとも一緒にいるのか。
その選択を失敗したくないからこそ、悩む。
失敗とは、未来の自分の後悔であり、望んだ姿からの乖離である。
選択肢があればこそ、人は悩む。
そのどちらも正解で、どちらも不正解だとしたら、人は悩むのだろうか。
後悔してもよし、どんな自分の姿もOKだとしたら。
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結局のところ、その選択が正解かどうかだったなんて、いつになっても分からない。
志望校に入れずに落ち込んだけれど、いまとなってはその学生時代の友人がかけがえのない財産だと思えたり、
お付き合いした当初はロマンスに溢れていたけれど、いまとなってはなんでこんな人と付き合ったのかと愕然としたり、
そんな経験など、誰にでもあるのだろう。
見方が変われば、世界が変わる。
言い換えるのならば。
これから起こる未来のことをコントロールすることはできないけれど、過去はいかようにも変えることができる。
だとするならば。
ある選択で迷ったところで、結局どちらを選んでも一緒ではないか。
そうしたとき、悩みは私たちの前から姿を消す。
ある選択の正解を出すことが、悩みの解決なのではない。
その選択がどうでもよくなることが、解決の本質なのだ。
どちらでも正解で、どちらでも不正解。
そう思えば、何を選んでも、どれを選んでも同じように思えてもくる。
飲んでも、飲まなくても。
きっと、大丈夫。