大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ナビのないくるま。

方向音痴のケがある私は、ナビのない車は乗らないようにしている。

乗り慣れた道ならまだしも、初めて通る道をナビなしの車で走るのは怖い。

最近は、ほとんどスマホの地図アプリで代用できるようになったので、その心配をすることはほとんどないのだが。

ナビが普及する以前の人は、いったいどうやっていたのだろうと、いつも不思議に思う。

初見の道路を走るときは、頭の中に地図を叩き込んでいったのだろうか。

そう思うと、車の運転は非常に難度が高い技能の一つだったように思える。

私には、かなりハードルが高い技能だ。

そんなことを考えていたら、社用でナビの無い車を運転することになった。

行き先は、車で30分ほどかかる初見の場所。

私にとっては、なかなかにドキがムネムネするシチュエーションだ。

スマホの地図アプリで目的地を検索し、ルート案内をしようとしたところで、ふと手が止まった。

なんとなく、行ってみよう。

迷ってから、アプリを開こう。

目的地までのルートが、割と覚えやすい道だったからかもしれない。

いや、春の空が、気持ちよく晴れて青かったからかもしれない。

ただ、なんとなく。

その「なんとなく」は、大事だ。

断酒を始めたのも、なんとなく、だったのだから。

柔らかな春の陽射しを眺めながら、車を走らせる。

バイパスの県道に出たら、西へ、西へ。

市役所前の交差点を見つけるまで、まっすぐ。

朝には暖房をつけようか迷ったくらいの気温だったのに、日中の車内は「ぼわん」とした暖気が満ちてくる。

春、真っ盛り。

窓を開けようとドアに手をやると、パワーウインドウでないことに気づく。

なつかしの、回転式ハンドル。

信号待ちの間にハンドルを回し、窓を開ける。

くるくる、くるくる。

そういえば、昔の車はみんなそうだった。

あれは、カローラだったのか、何だったのか。

エンジンというものに全く興味を持たなかった、幼い日の私は、在りし日の父の乗っていた車の車種もあやふやだ。

なんとなく、内装が茶色かったくらいしか覚えていない。

それでも、その車の窓を開けようとするとき、同じように回転式のハンドルを回していた。

くるくる、くるくる。

渋滞に嵌って暇になってしまったとき、後部座席で退屈そうにそれを回していたことを、思い出す。

思い返せば、父の車の助手席には、道路地図があった。

ナビなどなかった時代、父はその道路地図を何度も見ながら、行楽地へと車を走らせたのだろうか。

それを想うとどこか切なく、そしてありがとうと呟きたくなる。

回転式ハンドル、道路地図。

どこかで忘れていた、愛のかけら。

幸いにも、目的地には無事にたどり着けることができた。

何度か曲がる交差点を間違えて焦ったりしたのは、ナイショだが。

なんだ、それでも意外と大丈夫じゃん。

このご時世、正しい方法や有効なメソッド、あるいは有益な情報はあふれているけれど。

ナビなしで走ってみるのも、たまには悪くない。

「道に迷う」ということは、人間にしかできないことなのだ。

そして、その道中で、忘れていた愛のかけらを見つけることも。

きっと、人間にしかできないこと。

たまには、ナビなしで走ってみるのも、悪くない。

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黄色は春の色。