残暑や余寒、あるいは晩秋といった言葉には、どこか過ぎゆく季節への目線がある。
けれど、晩春という言葉には、それが薄いように感じる。
晩春の頃は、清明あるいは小満のころ。
新緑で生命の力が最も輝くとき、人は過去を煩うのではなく、未来を想う。
過ぎゆく春に想いを馳せることは、少ない。
だからという訳ではないだろうが、
過ぎゆく春、というのはどこか切なく、胸をきゅっと締め付ける。
ほんの少し前まで咲き誇っていた梅の花。
ふと見ると、その枝に一輪の花弁しか残っていない。
その凛とした咲き方を愛でながら、その先の春の終わりを想う。
過ぎゆくものというのは、いつも切ない。
それは、失われることの切なさではなく、失われることが分かっているの切なさだ。
あの雪の日、かじかむ手に息を吐きかけながら作った雪だるまのように。
失われるものは、いつも尊い。
それは、「いま」の唯一性と絶対性を、強固に主張する。
明日には吹雪のように散る、この可憐な雪柳のように。
それでも、きょう、いま、この瞬間を咲き誇るように。
失われるものは、いつも尊い。
古今東西、どの世界の賢者も口を揃えて伝えることがある。
変わらないものなど何もない、と。
もし、そうだとしたら。
世のすべてのものが変わり、移ろい、失われていくものだとしたら。
この目に映るものは、すべて尊いという三段論法も成り立つのだろう。
月を輝かせ、四季をめぐらせ、暁の空を照らし、そしてこの星を動かす力。
その力を凝縮したような、桜の蕾を眺めるとき。
やはり想いは葉桜と、その周りの桜吹雪へと。
移り変わるものは、いつも儚く美しく、そして尊い。
自らがどうあろうとも、進むときは勝手に流れ、留まるときは何をしても淀む。
それは美しく、訪れる。
ちょうど、春になれば桜が咲くほどの自然さと、美しさをもって。
流れと、よどみ。
朝がやってくる。朝が去っていく。
夜が訪れる。夜が戻っていく
幸せが訪れる。幸せが去っていく。
苦悩がやってくる。苦悩が消え去っていく。
花が咲いていく。花が吹雪いていく。
星々が輝く。星々が消えゆく。
春がやってくる。春が過ぎゆく。
けれど、あなたはその中にはいない。
あなたは、どこへも行かない。
ただ、ここにいる。