大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

『流れ』について。

たとえば高校野球で、解説者がこう言う。

「〇〇高校はチャンスですね。先ほどの回のピンチを、サードのファインプレーで凌ぎましたから、いい流れを持ってきましたね」

よく耳にするフレーズだ。

しかし、よくよく考えてみると、そのフレーズの中の『流れ』とは、何だろう。

試合をする両方のプレイヤーが全力を尽くす中で現れる結果を、単に『流れ』と呼んでいるのだろうか。

それとも、『甲子園の魔物』のように、論理的に説明できない何かが、勝負ごとの中には潜んでいるのだろうか。

勝負ごとが人生の縮図であるのならば、人生にも『流れ』があるのだろう。

学生時代、たくさんたくさん麻雀牌に遊んでもらった。

私も含めた麻雀打ちは、ほぼ皆、『流れ』というフレーズを無意識的に使っていた。

「今日は『流れ』がよくなかった」
「あの満貫を振ってから、『流れ』を手放してしまった」
「この『流れ』はマズイ、何とかしないと」

麻雀を打っていると、何かそうした非論理的なものでもないと、説明のつかない状況に出くわすことが多々ある。

サイコロを振っていると、あるとき1の目が何回も連続して出ることがあるように、限られた試行回数の中では、必ず偏りが現れる。

神さまの悪戯のような、牌の織りなり。

日々それに翻弄されながら、どうしてそれが生まれるのか、そして、どうやったらそれを操れるのか。

その問題に、私も周りの仲間も、躍起になって取り組んでいた。

戦いが終わった後の生ビールを交えての感想戦で、飽きもせず毎回毎回、同じ話をしていた。

冷静に考えると、アホ極まりないのだが。

その学生時代の友人に、カズト(仮)という友人がいた。

「類は友を呼ぶ」ではないが、共通の友人から雀荘で知り合い、会うのも雀荘か居酒屋だけ。

名字を知ったのは、知り合ってからずいぶんと経ってからだったように思う。

カズトは、めっぽう麻雀が強かった。

冷静沈着、正確無比の読み、押し引きのバランス、ここぞというときの爆発力…多くの友人の中でも、カズトの雀力は際立っていた。

私も何度、徹夜明けの吉野家で「やられたわー」と突っ伏したことか。

カズトもまた、『流れ』論者だった。

居酒屋で延々と「流れが悪くなったら、どうするか」という議論を肴にして呑んだ。

カズトは言っていた。

「流れが悪いときは、ヘタに余計なことせず、基本に忠実に打ってる」と。

カズトの打牌を後ろで見ていたこともあったが、どんな配牌でも、カズトは丁寧に、丁寧に打っていた。

あまりにひどいめぐりが続くと、普段と違うことをしたくなったりするものだ。

それで不調を抜け出そうとする打ち手もいる。

どれが正しいか、というのは、分からない。

いや、そもそも『流れ』などというものが在るのかどうかも、分からないのだが。 

ただ、カズトは、いつも丁寧に丁寧に打っていた。

不運も、濁流も、不調も。

どんな『流れ』も、受け入れ委ねているようだった。

何かを変えようと思ったとき、いままでしていたことを手放したり、いままでやらなかったことをしてみる、ということが鍵になることがある。

押してもだめなときは、引いてみるとか、
一人で頑張り過ぎたときは、誰かに頼ってみるとか、
何かを足すのではなくて、やめてみる、とか。

けれど、私の記憶の中のカズトは、愚直に素直に、どんな配牌でも向き合っていた。

それは、もしかしたら『流れ』に身を委ねる形の一つかもしれない。

季節はめぐり流れていくように、人生にもまた、『流れ』というものがあるのだろう。

それを『今日の運勢』と呼ぶか、『天中殺』と呼ぶのか、『厄年』と呼ぶのか、『プロセス』と呼ぶのか、『成長』と呼ぶのか。

その呼び方の違いだけのような気もする。

『流れ』がいいときも、
『流れ』が悪いときも、
できることは、身を任せることだけかもしれない。

ただ、季節がめぐるように。

その『流れ』に身を任せて、運ばれていくのを待つだけ。 

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アホなことを書いていたら、久しぶりに牌を愛でたくなってきた。