大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

桃の節句に、娘を想うこと。

「どうせ、おとうは、僕よりも娘のほうがだいじなんでしょ」

罪悪感を刺激するのが得意な私の息子の、最近トレンドの手口だ。

罪悪感にまみれるのが大好きな私と、拗ねて無力感に浸りたい息子との凹凸は、どうもぴったりのようだ。

そもそも、ほんとうに息子がそう信じていたら、そんなことは怖くて聞けないのだが。

だから、それは(私の)エゴが見せてくれる、コントの一つなのだ。

そうじゃないよ、と笑ってあげるのが吉、なのだろう。

そうじゃないよ、とはいいつつも。

娘、という存在は、男親にとって特別な存在だ。

息子とは、「だいじ」のベクトルが違う。

それは、他のどんな関係性とも違う「だいじ」なのだ。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

以前にこんなエントリーを書いたが、その存在が世界にあることだけで、喜びなのだ。

ただただ、愛おしく。

そのような存在の前では、私自身の不完全さも、罪深さも、いびつさも、どうでもいいことのように思えてしまう。

そう思うようになってから、私の中で、世の女性というものの見方も少し変わったような気もする。

暖かな陽射しと、まだ冬を感じる冷たい風。

息子と娘と公園を歩く、春の日。

自立の過程なのか、何でも親なしでやりたがる息子のおかげで、行き違いになったりドタバタとした日だった。

入れ違いになってしまった娘を探して、近所の公園まで慌てて走って戻ったり。

娘の姿が見えなくなると、なぜこんなにも平静を保てなくなってしまうのだろう。

我ながらに不思議に思う。

娘は、私がパンクを修理しに行った自転車店に、一人で歩いて行っていた。

通学路なのだが、あらためて大きくなったなぁ、と思う。

抱っこすると、ずっしりとその身体の重みを感じる。

あんなに小さかった身体が、もう軽々と抱っこもできなくなっていくのだろう。

両の手に余るくらいの喜びと、その裏返しの寂しさと。

まだ冷たい春の風に吹かれて歩く、道すがら。

ピンクの花が咲いていた。

紅梅だったけれど、

そういえば、今日は桃の節句だった。

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白梅には曇天が。紅梅には晴天が、よく似合い。