イチローや松井は、毎試合、毎試合、出場し続けることに重きを置いていた。
その試合を観に来た人にとっては、その一期一会の一試合しかないからだ。
自分に料理を美味しくつくることのできる才能があるのだとしたら。
できるだけ多くの人に、それを伝えたい。
そう言って、大将は笑っていた。
いつもはカウンター越しに私だけが食べているので、一緒に食べながら話すのは、どこか新鮮だった。
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大将のお店にご縁を頂いてから、もう15年以上になる。
その料理の味と、そこにある笑顔に、もうずいぶんと長く癒されてきたものだと思う。
古参がドヤると、お店にとってあまりよろしくないとは思いながら、それでも長いことお世話になってきたものだと思う。
職場の近所にオープンした大将のお店に、私は先輩に紹介頂いて訪れた。
もう15年以上も前のことになるのか。
その美味しさに感動して、折に触れて暖簾をくぐるようになった。
当時は今ほどネットの飲食店検索サイトの影響力もそれほど大きくなく、また大将の店はメディアにも露出していなかったが、人気店になるのは早かった。
結局のところ、最強の宣伝ツールというのは、いまも昔も変わらず「口コミ」なのだろう。
ふらりと訪れてもカウンターに座れていたのが、あれよあれよという間にいつ訪れても満席になり、予約なしのお客さんの入店を何度も断り、ひっきりなしに電話での問い合わせを受けるようになっていた。
「食いもの屋とできものは、大きくなると潰れる」とはよく言ったものだが、大将は自分の目の届く仕事にしか興味を持たないようで、その味は冴え渡るばかりだった。
ただ、営業時間中にふらりとのれんをくぐったお客さんを断るとき、カウンターの中で寂しそうな表情をしていたように思う。
開店から10年が経ったころ、大将は店を閉めて業態を変えた。
予約は取らないが、行列のできる店になった。
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映画でもスポーツ観戦でも、そして飲み会でも。
「この一瞬」という瞬間がある。
2時間の試合を観る中で、このプレーが見られてよかったとか、
あるいは会食の中で、この一言を聞くために、それ以外の時間がある、というような。
その夜は、この話を聞くためにあったのかもしれない。
すなわち、人気の絶頂の中で店を閉めたときのことだ。
大将は言った。
あの状態になる(人気が過熱する)と、一見さんお断りの会員制にするか、極端に新規客の枠を少なくするか、だいたいの店がどちらかに移行していく。
けれど、そうはしたくなかった、と。
そういえば、よくカウンター越しに「そんな何か月も前から予約しなきゃならない店にしたくない。ふらっと暖簾をくぐって、カウンターに座れる店がいい」と言っていたのを、私は思い出していた。
世には席を埋めることに苦労する店がごまんとある中、因果なものだ。
なぜ、そういう店がいいんですか?
自分を評価してくれるお客さんだけを相手にしていたら、だめなんですか?
そう私が質問した答えが、冒頭の言葉だった。
イチローや松井は、毎試合、毎試合、出場し続けることに重きを置いていた。
その試合を観に来た人にとっては、その一期一会の一試合しかないからだ。
自分に料理の才能があるのだとしたら。
できるだけ多くの人に、それを伝えたい。
これを聞くために、その夜はあったのかもしれない。
大将の美学が詰まった、言葉だった。
蛇足だが、決して会員制にしたりすることがいいとか、悪いとかいう話ではない。
ただ、自分の才能の使い方をどう規定するかであり、それは表現者としての美学が異なるだけの話であると思う。
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自分に才能があったとして、と大将は仮定した。
私から見れば、その才能があることは明々白々なのだが、重要なのはそこではない。
その才能があると仮定するのは、自分自身でしかない。
自分の外の誰かの評価や承認ではなく、自分が自分をどれだけ規定するか。
結局ところ、自己価値をどう規定するか、というだけだ。
自分に才能があるのだとしたら。
その才能を、誰と分かち合いたいのか。
あるかどうか、というところは問題ではない。
あるとしたら、それをどう使って分かち合いたいのか、という問いだ。
多くの人が仕事納めだっただろう、金曜日の夜の地下鉄は、どこか緩んだ空気が流れていた。
自分に才能があるのだとしたら。
その才能を、誰と分かち合いたいのか。
その緩んだ空気に揺られながら、私の頭からそのフレーズが離れなかった。
トリュフと温玉の炊き込みご飯。
普段は私だけが食べているのに、大将も食べながら話すのは新鮮で。