外宮の駐車場を出て、内宮へと車を走らせる。
午前5時台。
昨年の1月に訪れた際には、ひどく渋滞していた32号線も、行き交う車はほとんどない。
街灯が照らす道路の上に黒い物体が見え、あわててハンドルを切って避けた。
それは、何かの生き物の死骸のようだった。
これから内宮に参拝に行くのに、縁起の悪いものを見てしまったと、少し気が滅入る。
けれど、ふと去年熊野を訪れたときにも同じように、その道中で何かの動物の死骸を見たことを思い出す。
縁起がいいも悪いも、自分が決めていること。
聖なるもの、光なるものの際には、それと対になる俗なるもの、闇なるものが在るのかもしれない。
そんなことを考えていると、内宮周辺に着いた。
記憶を頼りに、いつも車を停める川原の駐車場に向かったが、朝早すぎるせいか入り口が閉鎖されていた。
暗闇の中、駐車場を探しているうちに、伊勢志摩スカイラインに乗りそうになって、あわてて引き返したり。
結局、ウロウロと回っているうちに内宮から一番近い「A駐車場」とやらに導かれ、運よく空いていて停めることができた。
午前5時55分。
内宮の宇治橋前に到着。すでに日の出を待つ人だかりができている。
そもそも今回お伊勢を訪れようと思ったのが、この宇治橋から昇る日の出を見たかったのがきっかけである。
冬至を中心として前後1ヵ月、宇治橋の大鳥居から日の出が昇る絶景が見られると聞く。
ニューグレンジ、ストーンヘンジ、ピラミッド…多くの世界の遺跡の構造は、太陽の通り道と深く関係しているとされる。
春分、夏至、秋分、冬至…太陽の運行が一年の中で見せる特異点において、それらの遺跡は特別な姿を見せることが知られている。
それらは古代の民の太陽信仰によるものとされるが、この内宮が祀る天照大御神もまた、太陽神そのものである。
その太陽の力が、一年の中で最も弱まる冬至の前後1ヵ月の間だけ、宇治橋の大鳥居の中央から朝日が昇るのは、そのことと無関係であるはずがない。
「陰極まりて陽となす」とされる冬至において、日の出が最も美しく見られるように設計されているのだろう。
冬至の前日ではあったが、古来より崇拝されてきたその姿を、実際に拝んでみたいと思った。
大鳥居の上には、まだ青白い月がぽっかりと浮かんでいた。
暗闇に浮かぶ大鳥居と、月の対比が美しい。
幸いにも、正面に鳥居を望める場所の三列目あたりを確保することができた。
現在時刻は6時ちょうど。
日の出は6時56分だが、正面に標高376mの鳥居山があるため、実際に日の出が拝めるのは7時40分頃と聞く。
あと1時間半、地蔵のようにじっと動かず、夜明けを待つのみである。
ダービーや有馬記念などのビッグレースで、観戦場所を確保してから発走を待つまでの地蔵タイムを思い出す。
師走の寒い中、1時間半も待つのは大変だったかと聞かれると、全くそうではなかった。
夜明けとともに次々に移り行く空の色を眺めているのが、飽きなかったからだ。
6時12分。
東の空がわずかに白み始める。
姿なきものたちも、目覚め始めるような色合い。
ちょうど、夜と朝の境界線のような時間なのだろうか。
夜と朝、善と悪、男と女、生と死、美しさと残酷さ…その両極の境界線は、いつも美しい。
6時23分。
あたりはもうずいぶんと明るくなり、冬の早朝の空気が広がる。
夜が、明けた。
6時28分。
わずか5分ほどの間に、驚くほど空の色が移り変わっていく。
それは、ただ当たり前のようにある奇跡のように思えた。
少し、山の稜線に雲がかかっている。
日の出の時間には、青空が見えてくれるといいのだが。
だいぶ身体が冷えてきたので気温を調べてみると、この日の伊勢市は最低気温7度。
前日よりも冷えたらしいが、それでも師走の下旬にしては暖かい。
そういえば、ここに来るまでに天気予報を全く見ていないことに気づいた。
明日の予報は雨マークが出ているが、今日が雨だったら、私はどうしていたのだろう。
なぜか、雨が降ることなど微塵も考えていなかった。
不思議なものだ。
「前提」や「思い込み」といったものは、こういうものなのだろう。
見上げれば、月は、松の枝にひっそりと隠れていた。
青白かったその顔は、すっかり白くなっていた。
6時35分。
日の出が近くなり、東の空が黄金色に輝きはじめる。
6時43分。
すっかり朝の空となったが、雲がたくさん流れてきたようだ。
この時間から、多くの参拝客が宇治橋を渡っていく。
7時03分。
日の出の時刻を越えて、空が燃えるような色に。
ちなみに写真ではわからないが、私の後ろにはすでに大勢の日の出を待つ方々が並んでおられた。
7時15分。
鳥居の真ん中から日が昇るはずだが、微妙に南に外れたところが明るくなる。
山の稜線の加減からだろうか。不思議だ。
7時38分。
いよいよ予定時刻の7時40分が近づくが、山際にはまだ雲が広がっている。
一番前で三脚を立ててファインダーを覗き込んでいた男性が、「うわぁ、ちょうどの時間に雲がかかっちまったなぁ。今年はダメかぁ」と呟いた。
やはり、そうなのか…
けれど、この風景だけでも十分美しいし、よしとするか。
そう思いかけた刹那だった。
7時42分。
一瞬の、雲の切れ目から、ご来光が。
それは、何本もの矢のような、光だった。
7時45分。
7時47分。
7時48分。
同7時48分。
美しくて、眩しくて、神々しくて、涙が流れた。
「それ」は、2時間ほど前に外宮の正宮で感じたものと、同じだった。
あまりにも、当たり前の、奇跡だった。
あまりにも、当たり前で、気付かかなかった。
ただ、そこに「在った」。
いつも、こうして守られていたのだ。
毎日、毎日、変わらず。
あまりにも、当たり前で、気付かなかった。
7時51分。
再び雲がかかり始め、陽の光はぼんやりとし始めた。
7時54分。
雲が太陽を覆い、柔らかな光に変わっていた。
雲の中で光が反射するのか、太陽が何個かに分かれたように見えた。
陰中の陰たる、冬至。
太陽の力が、最も弱まるころ。
けれど、その時期こそが、太陽が最も美しく輝くころなのかもしれない。
山際から日が昇る、ほんの一瞬の間だけ、雲が晴れた。
ほんのわずかの間だったが、奇跡のような体験をさせて頂いた。
今日、ここに来ることができてよかった。
雲に滲む太陽をぼんやり眺めながら、私の頭にはそれしか思い浮かばなかった。