しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで二歩下がる
水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」の歌詞から。
前進気勢のマーチにあわせた明るい雰囲気と歌詞は、やはり高度経済成長を遂げていた昭和という時代の香りを感じさせる。
まだ生まれていない時代のことを、古き良き時代のように感じるのは、不思議なものだ。
実体験がないのにもかかわらず、多くの日本人にとって田舎の田園風景が、「故郷」の風景と感じることと同じようなものだろうか。
「三百六十五歩のマーチ」が歌うように、三歩進んで二歩下がって一歩進むのなら、まだいい。
三歩進んでみたところ、二歩どころか三歩下がってしまうように感じることも、生きていれば起こる。
なんだ、一歩も前進していないではないか、と。
そんなときに大切なのは、「どれだけ進んだか」という結果ではなくて、「どれだけ動いたか」という過程なのだろう。
絶対値として見れば、三歩と三歩で六歩も動いたのだ。
結果としての一歩
ではなくて、
過程としての六歩。
「幸せは移動距離に比例する」という格言もあるのだ。
その過程を、見てあげること。
それでいいのだと思う。
ときに人の成長は、螺旋階段を登るように例えられる。
一回りして同じ場所に戻ってきたように見えるときは、一つ上の階に来ているのかもしれない。
冬の朝焼けは、どこか名画のように。