月が、斬られていた。
座標軸を表すような経度線が、天体にかかっているように見えた。
飛行機雲か何かだろうか。
この遅い時間に、飛行機雲などができるのだろうか。
川の小橋の上、そんなことを考えながら、めずらしい天体の景色を見上げていた。
人はこころの内面にあるものを、外界に映し出すと言われる。
もしそうだとしたら、私の内面で、何が斬られているのだろう。
吹きさらしの小橋の上、冷たい師走の風はことさらに堪えた。
しばらく眺めていると、その傷跡のような座標軸から、月は少しずつ離れていった。
こんなにも月が動くのは速いものなのか、と思ったが、月が離れたのか、それとも座標軸が動いたのかは、分からないのだと思い直した。
気付けば薄い雲のヴェールを被り、ぼんやりとした輝きを放ち始めていた。
その月は、寂しそうな表情をしていた。
またこれか、と嫌になる。
親友と久しぶりに再会したときの喜びが大きいように、
久しぶりに再会した寂しさの闇もまた、格別に深い。
どれだけ大人数の中にいても、
どれだけ大切な人たちの中にいても、
孤独感がぬぐえない。
いや、むしろその逆で、自分の周りの人の数や大切さと反比例するように、深々と降り積もる寂しさ。
それは、結局のところ、
誰かとつながっているか、
ではなく、
どれだけ自分とつながっているか、
ということを教えてくれるだけだ。
この寂しさに気づいてから、それを癒す方法も学んできた。
誰かと話す
寂しい時に寂しいと言う
(特に両親に)感謝できることをたくさん探す
自分を愛してくれた人たちを思い浮かべる
どれも、寂しさを癒すことのできる魔法たち。
されど、それを「やる」かどうかは、また別の話なのだ。
魔法使いは、魔力がないと杖を振るえない。
魔力の尽きた魔法使いよろしく、私は弱弱しい足取りで小橋を後にした。
まずは、寂しさを否定しない
ということだろうか。
もしせむしからその背のこぶを取るならば、それはかれの精神を取り去ることになる。これは民衆がわたしに教える智恵だ。
ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」
かつてニーチェが語った金言が思い起こされる。
この寂しさは、翼だ。
気付けば、月は中天に輝いていた。
傷跡のような雲もまだ、浮かんでいた。