ただたのめ よろづのつみは ふかくとも
わがほんぐわんの あらんかぎりは
とは、浄土宗を開いた法然上人が京都の真如堂を訪れた際に、御本尊の阿弥陀物から授けられたとされる歌である。
どんなに罪は深くとも、ただ私(阿弥陀仏)に救われたいと願いなさい。
弥陀の本願がある限り、それを信じてひたすらに念仏を称えなさい。
といった意味であろうか。
弥陀の本願とは、一切衆生を救うという阿弥陀如来の立てられた誓いのことである。
法然上人に学んだ親鸞聖人は、お釈迦さまがこの世に来られたのは、この弥陀の本願を伝えるためだと書いている。
如来所以興出世
唯説弥陀本願海
「正信偈」
曰く、如来(お釈迦さま)が世に興った所以は、ただ、弥陀の本願を説くためである、と。
祖父が生前、毎日仏壇の前で毎日読んでいた「正信偈」を、思い出す。
早くに亡くした祖母の遺影に、祈りを捧げていたのだろうか。
=
よろずの罪が深くとも、「ただ頼め」と法然上人は仰った。
ままならぬこと、思うようにいかぬこと、揺れるこころ、犠牲の罠…諸々あれど、「ただ頼め」、と。
それは、ある種の祈りと言えるのかもしれない。
法然上人が仰るところの、弥陀の本願を信じること。
それは、ただただ、自分を信じることと言えるのかもしれない。
阿弥陀さまに、仏さまに、大いなるものに、愛された存在であることを。
どんな道であれ、ただただ、自分の生きてきた道を信じること。
その道の上で、起こったことを、すべて受け入れること。
その道の上で、出会った人たちを信じること。
その道の上で、出会ったどんな自分をも信じること。
その道の、未だ来ぬ先を信じること。
どんな自分ですらも、大いなるものに愛された存在だと知ること、信じること。
ただ、手を合わせること。
ただ、目を閉じること。
ただ、祈ること。
ただ、それだけ。
されど、それだけ。