夏目漱石の晩年の思想は、「則天去私」という言葉でよく語られる。
私心を捨て、天の定める法則に従って生きる、というほどの意味だとされる。
「私の個人主義」を著し、その中で自我と他者、そして権力との相克を語り、「自己本位」について徹底的に考え抜いた漱石が、その晩年に「去私」の境地に至ろうとしたのは、やはり興味深い。
その変遷が、年輪によるものなのか、希望していた研究者・教育者としてままならぬ現実によるものなのか、それともやはり、晩年の生死を彷徨うほどの大患によるものなのか。
後世に生きる我々にとって、その意味付けの真偽は分からない。
その意味付けとは、ある意味で神話のようなものなのかもしれない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
されど百年以上の時を経て、漱石の歩いた道と、その道程で遺した作品は、それに触れる者の胸を打つ。
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いったい、私たちはどれくらいの神話を持っているのだろう。
どうせ私は見捨てられる
いい子にしていないと、愛されない
頑張らないと、成功しない
正直でいないと、いけない
あまりに痛かった古傷が紡ぐそれらは、あまりに強固な神話だった。
その神話を超えて、自分を生きようと願った。
けれど、それもまた、新たな神話を紡いでいるだけなのかもしれない。
古事記・日本書紀に記された大和王権史観による神話が間違っているとするなら、出雲、諏訪といった土地に由来する神話が正しいのだろうか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
悠久の時が紡ぐ歴史の折りなりは、いつも中間色だ。
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眠りから覚めた感覚とは、ひょっとしたら眠りから覚めたという夢がもたらしたものだったのかもしれず。
「一炊の夢」から目覚めた唐の青年・盧生は、実はまだ夢の中にいるのかもしれない。
もし、盧生が「一炊の夢から目覚めたという夢」から目覚めたなら、彼はどう思うだろうか。
故事に伝えられるような、どんな栄華も栄光も、粟が炊けるまでのうたた寝ほどの儚いものにしか過ぎない、ということを悟ること「すら」、意味のない神話だと思うのだろうか。
だとするなら、永遠に続くマトリョーシカの人形か、はたまた、どれだけでも剥ける玉ねぎよろしく、それは続くのだろうか。
夢とうつつを分けるその境界線もまた、滲み絵のように不確かで、ぼんやりとしている。
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さまざまな陰影が折り重なって、世界を彩っている。
その怖れを打ち勝たなくても、
その罪を償わなくても、
その傷を癒さなくても、
そのエゴとともにあっても、
その痛みを許さななくても、
そのままでいいのかもしれない。
もちろん、打ち勝っても、償っても、癒しても、許してもいい。
私はそのままでいい。
そう思えたときに、私は自分自身を無条件に愛していると言える。
そうしたとき、同時に世界は無条件に美しい姿を現す。
けれど、もはやそれすらも、神話かもしれず。
ぼんやりとした、滲み絵のように。
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ただ、目の前の世界を、あるがままに。
ただ、目の前の人を、そのままに。
ただ、観てみたい。