大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

秋分の日に「だいじょうぶ」という言葉について想うこと。

「だいじょうぶ」という言葉は、二義的である。

「悪いことは起こらないから、だいじょうぶ」という意味と、
「悪いことなど何もないから、だいじょうぶ」という意味と。

前者は希望であり、後者は信頼であるといえる。

どちらでも、「だいじょうぶ」なのだ。

9月も下旬とは思えぬ31度の夏日に、虫捕りを思い出したのか、息子はトンボを捕まえたいと言い出す。

いつもの川沿いの道を歩いたが、あまり飛んでおらず空振りに終わる。

少し前には五月蠅いほどに鳴いていた蝉の声は、ススキを揺らすやさしい風の音に変わっていた。

秋分の日の空を眺める。

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全能感溢れる夏の空はもうどこにもなく、どこまでも澄んだ瞳のような青が広がっている。

桜の木はところどころにその葉の色を変え、足元で黄色いさざ波を形づくっている。

陰陽がちょうど半分ずつになる、「陽中の陰」たる「秋分」。

どれだけ夏が暑かろうと、その日は訪れる。

それは、ちとせの昔から繰り返されてきた、摂理であり、ことわりである。

ことわりを曲げようとしてしまうのもまた、人の性である。

「冬が来ませんように」

と、人知ではどうにもならぬことわりに反して、祈りを捧げるのもまた、人である。

その祈りは、何度も繰り返されるうちに、人の生きる希望へと昇華する。

「冬など来ないから、だいじょうぶ」

おおよそ希望的観測は、人の生きる糧である。

それがあればこそ、人は過去を忘れ、未来に思い煩わず、いまに生きることができる。

されど、冬は訪れる。

何度も何度も訪れる冬に打ちのめされ、試される。

その叩かれ、研磨される時間を経るうちに、底を尽きそうになっている希望の箱の中に、一粒の真理が残る。

「夏も冬もあればこそ、土は肥え、米は育つ」

いつしか、その真理は鈍色の光を放つ。

「いいことも、悪いこともない。何が起こっても、だいじょうぶ」

その光を、人は
信頼
と呼んできた。

それは生への飽くなき賛歌であり、
大いなるものへ捧げる供物でもある。

いずれにせよ、だいじょうぶなのだ。

だいじょうぶ、という言葉は、二義的である。

結局のところ、だいじょうぶなのだ。

秋が訪れ、いつしか通り過ぎていくように。

そして、またいつか円環を描いて戻ってくるように。

だいじょうぶ。

ただ、その生を愛でよう。