ドイツに生まれたユダヤ系の哲学者・社会心理学者のエーリヒ・フロムは、1941年に亡命先のアメリカで、彼の主著となる「自由からの逃走」を発表する。
「神は死んだ」というあまりにも有名なニーチェの警句に表されるように、近代社会はその発展過程において、宗教、血縁、土地といった様々な束縛から個人を解放していった。
けれども、そうした「社会の絆」からの解放によって与えられた「自由」は、権力からの逃走といった消極的な意味での自由でしかなく、それによって人々は前近代よりも不安を抱えることになった、と。
そして、そうした不安な個人の行き着く先にナチズムの暴挙があることを、フロムは社会心理学の側面から説いた。
自由になりたいと言いながら、自分を束縛する何がしかを求めてしまうのが人間であるともいえる。
いったい人間という存在は、自由というものがもたらす不安に耐え、フロムの言うところの「積極的自由」を獲得することができるのだろうか。
「自由から逃走」の指摘は鋭く、現代においても殊更に大きな意味を持つと感じる。
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何を書いてもいい。
私がものがたりやフィクションを書くことに抵抗と怖れを覚える一つの理由が、それなのかもしれない。
〇〇について、という枠にはめてもらった方が、書きやすい。
されど、ものがたりやフィクションとなると、そうもいかない。
何でもいいのだが、自分で全てを決めないといけない。
それは、やはり私にとっては慣れないし、怖いものだ。
フロムの言うところの、「消極的自由」を得たことがもたらす不安ともいえるのかもしれない。
どうやったら、その不安を昇華し「積極的自由」を得ることができるのだろうか。
いや、それとも、慣れの問題なのだろうか。
自転車のペダルの最初の一回転目が、最も力が要るように、慣性がはたらくまでが、がんばりどころなのだろうか。
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ほんとうに魅力を感じているとき、人は根源的な怖れを抱く。
それが自分のコアな部分であればあるほど、怖いものだ。
人は不幸せになるよりも、幸せになることを怖れるように。
そして、その怖れを乗り越えさせるのは、「誰かのために」というモチベーションだ。
いや、抽象的な「誰か」ではない。
個別具体的な「あの人のために」なのだろう。
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もっと自由に。
あの空のように。
もっと、自由に。