アタマは何もしていない時にこそ、はらたく。
考えようと思えば思うほど、
思考は単なる作業になり、堂々巡りになる。
何もしない「空き地」のような時間を持つこと。
その時間は、いろんな情報を勝手に整理してくれる。
その時間は、いまの自分に必要なものを、
気づきやインスピレーションという形で降ろしてくれる。
リラックスして、呼吸を深くして、揺蕩っていること。
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何かを「しよう」としないこと。
それはすなわち、何かを「コントロールしよう」としないこと。
滔々と流れる川の流れを、せき止めようとしないこと。
小川が集まり大河となり、海を成し、そして雲となり雨となるように。
放っておけば、やがて落ち着くところに落ち着く。
流れに、抗おうとしないこと。
ただ、力を抜いていれば、身体は勝手に浮いていく。
肩の力が抜ければ、自然に身体は動いていく。
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次々に落ちてくるボールをジャグリングしている状態で、
今日の晩御飯のことを考えることはできない。
いや、熟練のピエロならできるのかもしれないが。
たいせつなのは、ジャグリングじゃない。
ボールを落とさないか、じゃない。
いかにして、今晩の美味しいご飯にありつくか、なのだ。
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「ためにする」何か、はたいていウソだ。
たわわになった果実を収穫する怖さからくる、嘘だ。
大丈夫。その果実は収穫しても、またいくらでも実る。
いつまでもその果実を収穫しないでいると、
いつしか草むしりこそ我が人生の目的だと勘違いしてしまう。
たいせつなのは、ジャグリングじゃない。草むしりじゃない。
いや、もちろんそれもまた違った意味で、たいせつなんだろうけれど。
きっと、たいせつなのは、今日の晩御飯であり、瑞々しい果実なんだ。
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アタマは何もしていない時にこそ、はたらく。
余白をつくり、何かをしようとしないこと。
ただ、流れる川の水面や、見上げた空の美しさを眺めていること。