大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「お金」と「才能」は似ている。

「お金」と「才能」は似ている。

「それがあるかどうか」を皆が気にするけれど、「それがあるかどうか」は実のところあまり本質ではない、という点で。

平たく言えば、どちらも「ほんとうに好きなこと、やりたいこと」を判断するリトマス試験紙のようなモノなのかもしれない。

先日、友人とストレングスファインダーについて話をしていて、「コミュニケーション」の資質について話題になった。

「コミュニケーション」と聞くと、一般的には他人と心を通わせる資質ということになるのだろうが、ことストレングスファインダーにおける「コミュニケーション」の資質とは、「言葉で人を納得させる影響力」すなわち「言葉で表現する才能」の資質である。

ストレングスファインダーにおける資質とは、あくまで「資質」であり、「才能」の種がたくさん眠る場所のことを指し、それを意識して磨くことで「強み」として花開かせることができる。

さて、私の場合、3年ほど前に受けたストレングスファインダーの診断において、この「コミュニケーション」の資質は全34資質中の17位だった。

ちょうど真ん中、というところだろうか。

さして注目するべき資質でもないし、「下位資質を修正しようとするより、上位資質に注目して伸ばす」というストレングスファインダーの鉄則からすると、あまり注目してもリターンの少ない資質なのだろう。

むしろ、私の上位資質である「運命思考」「ポジティブ」「収集心」「学習欲」「適応性」を磨くことを考えた方が、私に与えられた資質を才能、強みとして発揮するためには効果的なのだろう。

さりとて、「文章を書く」ということに対して、「コミュニケーション」の資質がもう少し高かったら、と悩んだことはないように思う。

振り返ってみると、サッカーをやっていたときは、「もう少し運動神経がよかったら」「もっと足が速かったら」「センスがあれば」などと、いつも思っていた。

楽器を触っていたときも、周りと比較しては「音楽センスがない」「才能はないなぁ」「もっと早くから始めていればよかった」と感じていた。

不思議なものである。

結局のところ、自分のことは、自分が一番わかっていない。

「資質」も「才能」も、他人から見れば当然のように思える点が、本人が最も自覚していないという喜劇やコントのようなことは、いくらでもある。

だからこそ、コンサルタントやカウンセリングといった他人に話を聞くという職業が成り立つのだろう。

「才能」と言ってしまえば、それまでなのだが、それは分かりやすい「リトマス試験紙」のようなものだ。

 「才能」がないから、やらないのか。

 「才能」がなくても、やるのか。

  「才能」の有無について、気にするのか。

  「才能」の有無よりも、今の自分に何ができるのかを考えるのか。

  「向いているかどうか」に、悩むのか。

  「向いているかどうか」の前に、やってみるのか。

その両極の反応は、ほんとうに自分の「好きなこと」、「やりたいこと」を判断するには、いい問いのように思う。

この構造は、「お金」にも似たものがある。

 「お金」がないから、やらないのか。

 「お金」がなくても、やるのか。 

 「お金」を得られるかどうか、を気にするのか。

 「お金」を払ってでも、やりたいのか。

 「お金」と天秤にかけるのか。

 「お金」よりも大切なことなのか。

この「 」の中には、「他人からの評価」を入れ替えても、問いは成立しそうだ。

結局のところ、「才能」も「お金」も「他人の評価」も、「それよりも、大事なものなのかどうか?」ということを、いつも問いかけてくるリトマス試験紙のようなものだ。

ほんとうにやりたいことは、「それでも、やる」と思えるもの。

けれど、もしも「Yes」と大手を振って答えられないとしても、自分を責める必要は全くない。

ただ、それは「自分にとって」大事ではないものだった、ということが分かっただけなのだ。

自分にとって大事なものは、もっと他のところにある、ということに過ぎない。

それが分かっただけで、儲けものだと思ったらいい。

「お金」も「才能」も、誰もが「ある」ことを望むし、それが「ある」に越したことはない。

されど、それが「ない」ことが、やりたいことの障壁になるかと言えば、必ずしもそうは言えないのではないか。

それらよりも、自分にとっては大切だと思えることがあるだけで、何と人生の満たされることか。

つくづく、「お金」と「才能」は似ている。