とてもしあわせな夢を見た気がした。
まどろみの中から出たのか、それとも夢うつつの中にいたのか、判然としなかった。
けれど、なにかしあわせな満たされた感覚だけは確かなようだった。
それをしようとしたわけでもないが、ぼんやりと開いた目は、まだ薄暗い室内を視覚情報として与えてきた。
まだ夜は明けていようだった。
枕元のスマホに手を伸ばすと、4時44分を示していた。
ロック画面を開こうとして、私は手を止めた。
もう少し、この不思議な満たされた感覚の海で揺蕩っていたいと思った。
薄暗い室内の闇と混然一体になったような感覚に目を閉じていると、不意に、ああ、逢いに来てくれたんだな、と思った。
心地よい眠りが、また近づいてくるような感覚があった。
目を閉じたまま、私はそれに身を任せようと思った。
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寂しさも孤独感も、何かから分離しているという大いなる誤解から始まる。
どうしたって目に映る世界は、物理的に肉体的に離れているから、それは仕方ないのだけれど。
それでも、ほんとうのところは、やはりつながっているのだろう。
それを神さまと呼ぼうが、仏さまと呼ぼうが、内なる愛と呼ぼうが、集合無意識と呼ぼうが、何でもいいのだが。
夢とうつつを行き来する私たちは、何度もそれを忘れてしまうけれど、何度でも想い出せる。
親であったり、きょうだいであったり、傷ついた恋人であったり、無垢の手を差しのべる我が子であったり…誰かを救えなかったというのは、結局のところ、幻想なのだ。
すでに救われている存在を、救おうとしていること自体が、大いなる矛盾なんだ。
そして、「ああしてあげられなくてごめんなさい」、「こうしてしまってごめんなさい」、そう思ってしまうのは、過去に自分が「そうしてもらえなくて、悲しかった」という想いの裏返しなのだ。
それに気づいたら、「悲しいから、そばにいてほしい」と言えるようになる。
たとえその結果、そばに来てくれなくても、自分が自分の願いをちゃんと言えたという事実は、切れていたつながりを取り戻す。
たとえ、今世ではもうそばにいられない人にでも、それを言えることで、その寂しさと孤独感は癒える。
「いま、とても悲しい」
その言葉を愛する人にまっすぐに言えたとき、世界は変わる。
つながりを、取り戻す。
何度切れても、何度でも取り戻せる。
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つながりを取り戻すたびに、私はわたしでいることに感謝できるようになる。
いままで、愛してくれてありがとう。
私を産んでくれて、ありがとう。
感謝とは、行為ではなく、状態だった。
すこし白み始めた窓の外の光を、微かに感じながら、私はふたたび目を閉じた。