大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

頂いたご感想に寄せて ~なぜ怒りや恨みを「ぶつけなかった」のか?

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

こちらのエントリーに、ご感想を頂きました。

 

「私もその思い持ってます。五十代で両親を亡くしたので大嵜さんとは全然違うけど何でといろいろ思います、だからよくわかります、いないからぶつけられないからかなと…」

 

やはり人の深い部分というのは、どこかでつながっているようです。

 

それだけに、芸術でも文学でも何でも、個人の内面を落ち着いた眼で映し出すことは、誰かに対して与えることなのだ、と改めて思います。

 

それはさておき、せっかく頂いたご感想ですので、少しそのご感想を拝見して考えたことを綴ってみたいと思います。

 

 

まず、「五十代で両親を亡くしたので…」という部分ですが、人が何かを感じることに、年齢や性別や、いろんな制限は要らないと思うのです。

 

人が生きていく中で、「感情」はコントロールすることができません。

 

「感情」とは自然に湧き上がっては、また消えていくものであり、人が生きるエネルギーそのものとも言えます。

 

コントロールできるのは、あくまで「行動」の部分であり、それは生きてきた経験であったり、知識であったり、いろんな基準によって自分が選ぶことができます。

 

けれど、人は成長する中で、往々にして「感情を出してはいけない」ということを学んでいきます。

 

「こんなくらいで、弱気になってはいけない」

「人前で泣くのは恥ずかしいこと」

「こんなことで、人を嫌ってはいけない」

「感情を表に出すのは、はしたない」

 

…などなど、それは、親のしつけであったり、友人や仲間たちとの関係からだったり、社会通念であったり、その時代の常識であったり…いろんなところから、それを学びます。

 

けれど、「感情」というのは寂しがり屋で、いるはずなのに無視してしまうと、私たちを振り向かせようとどんどん大きくなります。

 

ここにいるよ、気づいてよ、こっちを見てよ、と。

 

胸の内が苦しかったり、しんどかったりするのは、自分の感じている「感情」を無視して、理性や常識といったもので抑え込もうとして、その綱引き、葛藤が苦しいんですよね。

 

あの人のことが本当に嫌いなのに、でも気まずくなりたくないから、好きでいようとする、とか、

両親のことを恨んでいるけど、それを言うのは人として間違っている、とか。

 

辛い感情や悲しい感情といった、「感情そのもの」を感じることよりも、それを感じないように抑えることの方が、実際には辛く悲しいのです。

 

だから、感じてしまったものは、それを否定せずに受け入れてあげることが大切だと思います。

 

誰かに話す、紙に書く、身体を動かす、思い切り大声で歌う…

 

どんな感情も、それが永遠に続くことはありません。

 

感じようとすればするほど、感情は解放されて楽になります。

 

恨んでいるなら、恨んでいる、でいいんですよね。

 

感情に身をゆだねる。

 

そこで、感情を抑え込んだり、その感情を持つ自分を責めたり、罪悪感から自分を責めなくてもいいと思うんです。

 

なぜなら、「感情」をどれだけ感じても、「行動」は自分でコントロールできるから。

 

いま感じている感情を否定せずに受け入れ、それをコントロールすることなく、ただあるがままにしていると、不思議と心は落ち着きと静けさを取り戻していきます。

 

これは、ほんとうに不思議なのですが、どんなときでも、です。

 

 

さて、その上で。

 

なぜ、そうした感情をいままで、ぶつけることもせずにいたのでしょうか。

 

怒りや恨みといった感情をぶつける対象(ご両親)がご健在かどうか、というのは、実はあまり関係がありません。

 

ご両親が生きていても、なかなか会えない事情があり寂しさを感じる場合もあるでしょうし、

ご両親がこの世にいなくても、彼らとのつながりを感じて満たされる場合もあります。

 

感情というと、私たちはどうしても相手ありきで考えてしまいますが、実は自分の内面で起こっています。

 

すなわち、それは自分の外の世界の何がしかによって引き起こされるものではなく、自分の内面で湧き上がるものです。

 

その感情を、感じる必要があったから。

 

さて、そうして考えてみたとき、なぜそうしたネガティブな感情をぶつけられなかったのでしょうか。

 

言い換えれば、なぜ、怒りや恨みを(主体的に)「ぶつけなかった」のか、という問いに私は惹かれるのです。 

 

 

それは、愛していたからではないでしょうか。

ご両親を。

 

それだけ、深い愛で、愛しておられたんではないでしょうか。

 

深く葛藤するほどに、自分の感情を抑えなければいけないほどに、深い愛が、そこにあったように私は感じます。

 

とても、苦しかったと思います。

 

愛の深さだけ、苦しかったと思います。

 

どうか、ご自身の愛の深さ、大きさ、偉大さに少しでも気づいて頂ければ幸いです。

 

 

さて、余談ではありますが、人は人を許し、理解するために、立場を入れ替えて感情を交換する、ということをよくやります。

 

また怒ってしまった。

こんなことを思ってはいけない。

申し訳ない。

 

さて、それは誰の感情なのでしょう…

 

もしかしたら、ご両親がずっと感じていた感情かもしれません。

 

もし彼らに会えるとするなら、どんな言葉をかけてあげたいと思われますでしょうか。

 

恨みつらみ、怒りも、もちろん出てくると思います。

 

何時間かかってもいいので、それを吐き出した後に、最後に出てくるのは、どんな言葉でしょうか。

 

それを考えてみるのも、一つ感情を解放する鍵になるのかもしれません。

 

 

少し、頂いたご感想に寄せて、綴らせて頂きました。

 

「誰かに言いたいことは、自分に言いたいこと」の原則の通り、お恥ずかしながらまったくもって自分自身へのメッセージになりました。

 

ご感想いただきまして、誠にありがとうございました。

 

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