「与える」ということについて。
誰かに「与えよう」と思うとき、肩に不自然な力が入ってしまう。
ほんとうに誰かに「与えている」ときというのは、意識しなくても「与えている」状態なのかもしれない。
「与えること」とは、メソッドで表せる何かではなく、在り方なのかもしれない。
昨日のこちら↑のエントリーに、岩橋隆盛さんから返歌を頂いた。
読んでいて、「断酒してよかったな」、「それについて書いていてよかったな」、「ありがたいな」と思った。
けれどたった一つだけ言える事は、直さんが自分と向き合いながら断酒を続ける姿が、いつしか僕のビジョンになっていたという事。
誰に言われたわけでもなく、自分の好きで始めたことが、誰かのビジョンになっていた。
それはとても不思議なのだが、「与える」とはそういうものなのだろう。
無理をしたり、自分を犠牲にしたり、押し付けたり…わざわざそんなことをしなくても、ほんとうに誰かに「与えている」ときは、勝手に「与えてしまっている」ものなのかもしれない。
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ともすれば私たちは、
何かをしてあげるとか、
気の利いたことを言ったこととか、
何がしかのものを差し出しただとか、
こういう行動をしたとか、
そういった具体的な事象を、誰かに「与える」こととして捉えてしまいがちだ。
そして、その裏側にある「受け取る」という対価を心の奥底で求めてしまう。
さらには、自分の想像した対価を得られなかったときに、癇癪を起こす。
正当だと思っているのは自分だけで、相手からすれば自爆テロのようなものだ。
こう書いておきながら、私も常々よくやる。
特にパートナーや子どもといった近しい関係ほど、その傾向は強い。
それは契約もしていない取引の履行を、勝手にけしかけているようなもので、そこには「与える」という真心も愛もあるはずがない。
「与える」ということをメソッドや行為として考えるから、おかしくなるのかもしれない。
誰かに「与える」とは、本来、もっと自然な愛の発露のはずだ。
「与える」とは、何か特別なメソッドやツールが必要なものではなく、ただ「そこに在る」だけで周りの人に与えらているもの。
生まれたばかりの赤子は、ただそこにいるだけで周りの人間を笑顔にするように。
「与える」とはメソッドでも方法でもツールでもなく、ただ「在り方」。
それは、無理をしたり、着飾ったり、背伸びしたりするものではなくて、自分のしたいように、自分に素直に、自分の心のコンパスに従った、「在り方」。
それが、気づけば周りに大きなギフトを「与えて」いるのかもしれない。
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隆盛さん、改めて書いてくださってありがとうございます。
そんな僕のビジョンとなってくれた直さんには、本当に感謝の気持ちしかありません。
こんな素敵な言葉を書いて頂きましたが、こちらこそ、大切なことを教えて頂いたことに、改めて感謝いたします。
またお会いしたときには、ぜひウーロン茶か炭酸水で美味しい肴をつつきましょう。