大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

誰かに「与える」とは、意識しなくても「与えてしまう」もの。

「与える」ということについて。

 

誰かに「与えよう」と思うとき、肩に不自然な力が入ってしまう。

 

ほんとうに誰かに「与えている」ときというのは、意識しなくても「与えている」状態なのかもしれない。

 

「与えること」とは、メソッドで表せる何かではなく、在り方なのかもしれない。

 

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

昨日のこちら↑のエントリーに、岩橋隆盛さんから返歌を頂いた。

 

ameblo.jp

 

読んでいて、「断酒してよかったな」、「それについて書いていてよかったな」、「ありがたいな」と思った。 

 

けれどたった一つだけ言える事は、直さんが自分と向き合いながら断酒を続ける姿が、いつしか僕のビジョンになっていたという事。

 

誰に言われたわけでもなく、自分の好きで始めたことが、誰かのビジョンになっていた。

 

それはとても不思議なのだが、「与える」とはそういうものなのだろう。

 

無理をしたり、自分を犠牲にしたり、押し付けたり…わざわざそんなことをしなくても、ほんとうに誰かに「与えている」ときは、勝手に「与えてしまっている」ものなのかもしれない。

 

 

ともすれば私たちは、

 

何かをしてあげるとか、

気の利いたことを言ったこととか、

何がしかのものを差し出しただとか、

こういう行動をしたとか、

 

そういった具体的な事象を、誰かに「与える」こととして捉えてしまいがちだ。

そして、その裏側にある「受け取る」という対価を心の奥底で求めてしまう。

さらには、自分の想像した対価を得られなかったときに、癇癪を起こす。

 

正当だと思っているのは自分だけで、相手からすれば自爆テロのようなものだ。

 

こう書いておきながら、私も常々よくやる。

 

特にパートナーや子どもといった近しい関係ほど、その傾向は強い。

 

それは契約もしていない取引の履行を、勝手にけしかけているようなもので、そこには「与える」という真心も愛もあるはずがない。

 

「与える」ということをメソッドや行為として考えるから、おかしくなるのかもしれない。

 

誰かに「与える」とは、本来、もっと自然な愛の発露のはずだ。

 

「与える」とは、何か特別なメソッドやツールが必要なものではなく、ただ「そこに在る」だけで周りの人に与えらているもの。

 

生まれたばかりの赤子は、ただそこにいるだけで周りの人間を笑顔にするように。

 

「与える」とはメソッドでも方法でもツールでもなく、ただ「在り方」。

 

それは、無理をしたり、着飾ったり、背伸びしたりするものではなくて、自分のしたいように、自分に素直に、自分の心のコンパスに従った、「在り方」。

 

それが、気づけば周りに大きなギフトを「与えて」いるのかもしれない。 

 

 

隆盛さん、改めて書いてくださってありがとうございます。

 

そんな僕のビジョンとなってくれた直さんには、本当に感謝の気持ちしかありません。

 

こんな素敵な言葉を書いて頂きましたが、こちらこそ、大切なことを教えて頂いたことに、改めて感謝いたします。

 

またお会いしたときには、ぜひウーロン茶か炭酸水で美味しい肴をつつきましょう。 

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