勸君金屈卮
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離
君に勧(すす)む金屈卮(きんくつし)
満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨(ふうう)多し
人生 別離足る
于武陵「勧酒」(井伏鱒二訳)、井伏鱒二「厄除け詩集」(日本図書センター)より
唐の時代の詩人・于武陵の五言絶句を有名にしたのは、明治に生まれた井伏鱒二の訳である。
この盃をうけてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
出典 同上
この名訳の最後の強烈な二行は、寺山修司をしてその著書「ポケットに名言を」の中で、「この言葉に、人生のいくつものクライシスを救われた」と書いている。
読む者に強い情感を呼び起こすこの詩の解釈は、二通りに分かれるように思う。
すなわち、
「さよならだけが人生なのだから、いまを精一杯生きよう」
という一期一会・イマココという「人生」に主眼を置いた解釈か、
あるいは、
「さよならだけが人生なのであり、別離こそが人生そのものだ」
という「別離」に重きを置いた解釈か。
それは仏教における四苦八苦の中の、「愛別離苦」の教えに近いのかもしれない。
唐の時代の詩人、そして明治に生まれて平成まで生きた文学者、さらには昭和のなかで47年の生涯を生き切った詩人が、それぞれ想いを乗せてきた言葉。
その素晴らしさは、どちらの解釈も許してくれるところにあるようにも思う。
=
さよならだけが人生だ
と言われたとき、私をはじめとした男性は頭でそれを理解しようとする。
女性よりも感情を感じることが苦手な男性は、「こうあるべき」「答え」「真実の姿」が大好きだ。
よくよく考えてみれば「こうあるべき」なんてものは全て幻想であるし、
移ろいゆく四季には、どこにも「真実の姿」などないし、
「ほんとうの私」などなく、ただいまここにいる私しかない。
陽炎のように日々儚く移ろいゆくものの中に、そしていまこの瞬間にしか、その「真実の姿」とやらもないはずなのに、私はいつも、いまではないどこかにそれを求めてしまう。
「答え」を聞いた瞬間に、自分の心の奥底に眠っていた感情や言葉にすらできないような情感を、「間違ったもの」として切り捨ててしまう。
けれど、そうした「間違ったもの」や「ゴミ」や「がらくた」を、後生大事に持ち続けている人が、世の中にはいる。
誰の眼にも留まらなかった「がらくた」の中から、
「ここにこんなものがありますよ」
と指さす人がいる。
その「がらくた」の中に見つけたものを、
詩歌や絵画、音楽といった芸術で表現する人もいれば、
仕事やビジネスの中で表現する人もいれば、
人を愛する中で表現する人もいれば、
人と話をする中で表現するカウンセラーやコンサルタントのような人もいる。
そうした人たちは、皆が年を重ねる中で捨ててきた「がらくた」(のように見えるもの)を、後生大事に持ち続ける。
それが誰かの役に立つかどうか、なんてことは関係がない。
ただ、大事だから持ち続けるだけだ。
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寺山修司は、鱒二の意訳に寄せた詩を書いている。
さよならだけが 人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう
さよならだけが 人生ならば
めぐりあう日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛はなんだろう
さよならだけが 人生ならば
建てたわが家は何だろう
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう
さよならだけが 人生ならば
人生なんかいりません
寺山修司「さよならだけが人生ならば」詞:寺山修司/歌:カルメンマキ、「真夜中詩集-ろうそくの消えるまで」(ソニーレコード)より
さよならだけが人生ならば、人生なんかいらないと私も思う。
心の成長だとか、ほんとうの私だとか、与えられた才能だとか…
そんなことを言って頂けるのは、とても嬉しいのだけれども。
そんな成長よりも、真実の私よりも、才能よりも、
ハードワーカーでも、受け取り下手でも、生き辛くても、
ただ、そこに父と母がいてほしかった。
15年経ってようやく消去した携帯電話のアドレスに、
何でもないメールを送りたかった。
時に鬱陶しかったり、怒ったり、冷戦になったり、
時に笑ったり、時に不機嫌になったりして、
そして時に、花束を贈りたかった。
時に、帰省してみたかった。
一緒に、歳を重ねたかった。
凍えるような孤独と寂しさと引き換えに、
成長なり才能なりがあるのだとしたら、
そんなもの、いらなかった。
ああしておけばよかったという後悔と罪悪感にまみれた泥沼の底に、
すべてを癒すほのかに温かな愛を思い出すのだとしたら、
そんなもの、忘れたままでよかった。
きっと私は、「がらくた」のような想いを、ずっと後生大事に持ち続けるのだろう。
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ。
その言葉は、遠く昔の唐の時代から悠久の時を越えて、読む者の心を動かす。
地面に咲いた不思議な桜を見つめながら、その言葉が不意に思い浮かんだ春の日。
その春が過ぎ往くのを、私は惜しむのだ。