大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

寂しさに追いつかれる。

「寂しさに追いつかれる」とは、美しい言葉だなと思った。

 

なぜ美しいのか、ぼんやり考えていた。

 

寂しさに追いつかれた分だけ、私は世界とつながるからなのだろうか。

 

 

「寂しさ」とは、人が母親の胎内からこの世に生まれ落ちた瞬間から感じ始める、古い古い感情だと言われる。

 

「寂しさ」の持つ、虚無感や空虚感、孤独感、満たされない感じ、やるせなさ、存在理由を否定される感じ、動けなくなるくらいの虚脱感…そのどれもが、できれば感じるのを遠慮したい感情だ。

 

だからこそ、「寂しさ」は人を狂わせる。

 

それは人の心に空虚な穴を開け、ブラックホールのようにいろんなものを吸い込む。

 

周りの人からの好意も、感謝も、愛情も、何もかも飲み込んでしまう。

 

そして、満ち足りないその穴を埋めるために、時に人は劇薬に走ることもある。

 

ワーカホリックしかり、アルコールしかり、ギャンブルや買い物依存や、はたまた不倫などの道ならぬ恋愛。

 

まあ、かくいう私もさんざん「寂しさ」を劇薬で紛らわせて、遠ざけてきた。

 

いったん「寂しさ」を遠ざけ、その感情から逃げると、もう一度それに近づくことはなかなか難しい。

 

それは「自立」という壮大なプロセスの一部とも言える。

 

成長の過程においては、どこかで必ず親鳥の庇護を離れ、巣穴を離れるときがやってくるのは自然なことだ。

 

そこでてんこ盛りの「寂しさ」を味わった分だけ、雛は涙を堪えて大きく外界へ飛び立っていく。

 

「寂しさ」は「自立」の証拠であり、悪いことではない。

 

ただ、無自覚でいると、ヤツらは雪だるま式に膨れ上がり、心のやわらかな襞に大きな穴を開け、人を狂わせる。

 

 

「寂しさ」を自覚するとは、他者の「寂しさ」を感じることから始まるのかもしれない。

 

一緒にいてくれなくて、寂しい

つながりが切られてしまって、寂しい

周りの誰も助けてくれなくて、寂しい

 

そう思ってしまうのは、裏を返せば過去に

 

一緒にいてあげられなくて、寂しそうだった

つながりを切ってしまって、寂しくしてしまった

助けてあげられなくて、寂しい思いをさせてしまった

 

という想いがある。

 

過去に自分が誰かにしてきたことなんだから、その償いのために自分がそういう想いをするのは当然だし、それを声に出して言うのは間違っている、と。

 

だから「寂しさ」を切り、抑圧し、そして時に暴発する。

 

でも、誰にしてきたことなんだろう?

 

辛いときに助けられなかった友だちだろうか?

ボタンを掛け違えたままになってしまったあの人だろうか?

別々の道を歩むことになった兄弟だろうか?

自分が愛し抜けなかった恋人だろうか?

 

いや、やはり自分の親、なのだろう。

 

それは「自立」のたどるプロセスと、無関係ではない。 

 

「子どもは親を救うために産まれてくる」という言葉があるが、「自立」のプロセスの中で、「ほんとは親を助けたかったのに、一人にしてしまった」という想いを持ってしまうのかもしれない。

 

幼少期の、身体的な自立。

思春期の、精神的な自立。

成年後の、社会的な自立。

 

三つの自立の段階を経るたびに、人は「寂しさ」を重ねていく。

 

かくも、生きるとは壮大な矛盾を孕んでいるものだ。

 

そう考えると、「寂しさ」とは、人が生きる上で無条件でプログラミングされているものなのだろうか。

 

 

食欲や睡眠欲のように、「寂しさ」もまた、生きている限りずっと湧き続けて消えることはない。

 

逃げても逃げても、ずっと追いかけてくる影法師のようなものだ。

 

それに気づいて、私は自分の「寂しさ」を、これからもずっと聞き続けることしかできないんだと諦めた。

 

この不完全で完全なこの世で生きる、ということは、「寂しさ」の巻き起こす虚無感や欠乏感、孤独感を空に還していくということなのだ、と。

 

そういうもんだ、と受け入れると、不思議と「寂しさに追いつかれる」ことは美しいと思うようになるもので。

 

「とても寂しい。

 どこか、虚しい。

 ぽっかりと穴の開いた感じがする。

 生きていることに、価値を見いだせない。

 こころが引き裂かれて、分離している感じがする。

 何かが足りなく、欠けている感じがする。

 誰も自分を必要としていないように感じる」

 

そんな想いが湧いてくる度に、それに気づいて

 

「そうか、いま、『わたし』は、『寂しい』んだね」

 

と聞いてあげた。

 

どんな寂しさも虚無感も怖れも分離感も孤独感も欠乏感も、消さなくていい。

 

それは、私という殻に映し出される幻想だから。

 

「それを持っているのは、誰なのか」に気づくだけでいい。

 

完璧な愛を求めることもなく、不完全なままでいい。

 

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候

死ぬ時節には死ぬがよく候

これ災難をのがるる妙法にて候

 

かの良寛さんが仰ったように、寂しいときは寂しがるがよく候、なのだ。

 

自分の「寂しさ」と繋がった分だけ、どんなときでも私は「世界」に愛されている、と信じられるようになっていく。

 

その「世界」を神さまと言い換えようが、両親と言い換えようが、パートナーと言い換えようが、同じなのだろう。

 

世界、神さま、両親、パートナーと、

自分は、

つながっているから。

  

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寂しさのような色をした、あの公園のぼんやりとした薄明かりに。

 

寂しさを抱えて一人遊びをしていた、あの日と同じ色をした夕闇の空に。

 

「寂しさ」に追いつかれた分だけ、私は世界とつながっていく。

 

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