大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

母の日百景。

「母の日」というプロモーションは、ダイレクトメールの類いでは使えないんだ、と前に仕事でつながりのあった宣伝部の友人が言っていた。

新聞や雑誌広告、駅中のポスターなどの不特定多数の人の目に留まる「一般広告」にはもちろん使えるのだが、個別の顧客に対して宣伝をするダイレクトメールやその類いの「個別広告」には使えないそうだ。

なぜか。 

世の中にはある一定層、「母の日」を喜ばしく思わない人がいて、そうした層からクレームになることがあるからだ。

母親と確執を抱えていたり、
母親のことを想うと感情が掻き乱されたり、
あるいは母親と辛い別れをしていたり。

人の数だけ、母親に対する想いがある。

そして、その想いは

「おかあさん、ありがとう」

という十文字を素直に言える人たちばかりではない。

かくいう私も、「母の日」が苦手だった。

「母の日」に花を贈るかどうかの話しをする仲間が、羨ましかったからだ。

贈るべき母のいない私にとっては、単に仕事の上での関わり合いでしか捉えることができなかった。

注文が予想外に殺到してしまった仕入先の生花店で、出荷作業を手伝うためにほぼ徹夜で梱包作業をしながら、この立派なカーネーション一本一本の行き先を考えていた。

世の中には、こんなにも素直に母に「ありがとう」と伝えられる人たちがいるんだな、と。

感情を切っていた当時の私は、それ以上考えないようにしていたように思う。

やがて、仕事に燃え尽き全てがうまくいかなくなった私は、半強制的に両親の死と向き合うことになった。

ありがたいことにご縁を頂いたカウンセリングで、両親に感謝していることを100個書き出し、両親へいまの問題を相談する手紙を書いた。

手紙を書きながら、あれほど泣いたこともなかった。

切っていた感情を、取り戻し始めたようだった。

それは同時に、両親とのつながりを取り戻し始めた瞬間だった。

あれから約3年。

それが面白いもので、今日の母の日は、あまり情感が湧かなかった。

感謝や愛という情感より、ネガティブなそれが浮かぶ時間が多かったように思う。

私は、また違ったプロセスの中にいるのかもしれない。

20世紀後半から加速度的に研究が進んだ遺伝子工学・分子生物学が明らかにしたもの。

 

それは生命の基本仕様は女であり、これまでずっと生命を紡いできた縦糸は女系であり、男はその多様性をつなぐための横糸でしかない、という事実。

そうしたことを引き合いに出すまでもなく、母親との関係性は個としての人生に大きく影響を与える。

母親から肯定されていたというイメージは、全世界から愛されているという自己愛につながり、その逆もまた然りだ。

女性はどうか分からないが、結果主義の男性の私にとっては、ある種の問いが、いつも脳裏をかすめる。

母親は、私を産んで幸せだったのだろうか

と。

もう直接その答えを聞くこともできないが、心が乱れたり自分を見失うと、その問いが心の中を吹きすさぶ。

母親との関係に限らず、他者(これは人に限らず、会社組織や、お金といったものも含む)との関係においては、必ず「依存」→「自立」というプロセスを踏む。

自分では何もできない幼子、
新しい部署に配属された新人、
あるいは恋愛関係において惚れてしまった側。

自分では何もする力がなく、相手に全てを委ねている状態が「依存」であり、一般的に感情を感じる側とされる。

おかあさんがおせわしてくれるとあったかいな、
周りの人がとっても親切に教えてくれて嬉しいな、
あなたが世界の全てなんです…

そうした「依存」の状態は、相手が思い通りに動かない不満や、自分の力不足によって傷ついたりすることを重ねていくうちに、やがて自分の足で立つようになる。

「自立」と呼ばれるステージだ。

おかあさん、ちっとも僕の相手をしてくれない、
全然自分はチームの力になれていない、
あの人は私の気持ちを全くわかってくれない…

そうした「傷」を抱えた分、人は自分だけの力で歩いて行こうとし始める。

親からの精神的な自立も、こうしたプロセスを踏む場合が多い。

親から愛された「依存」の時代、
思春期で親に中指を立てて反抗した「自立」の時代、
そして歳を重ねて、親を理解して対等に付き合うようになる時代。

大好き!お母さんが世界のすべて!

から 

このクソバアア!お前なんて知るか!

を経て

お母さん、ありがとう。

というプロセスとも言える。

全て、必要なプロセスなのだと思う。

それを、自分を産んでくれた母親なんだから憎んではいけない、とかやってしまうと、そのプロセスの歩みは止まり、どこまでも消化不良な想いを肚の底で腐らせる。

私は、ようやく止まっていた両親との時計を進め始めたのだろうか。

もう亡くなっている「かわいそうな両親」だから、愛と感謝を伝え続けないといけな、という義務感から外れて、ようやく「受け止めてくれる両親」として認識し直して、遅れてきた反抗期を始めたのだろうか。

それは、よくわからない。

けれど、もうしそうだとしても、どうせすべて「そこ」に還る道なのだから、中指立てたければ安心して立てていればいいのかもしれない。

百人いれば、百通りの母の日がある。

けれど、そのすべてが、愛を思い出す旅路の一コマに過ぎないのかもしれない。

安心して、感謝を伝えて、葛藤して、中指立てて、揺蕩っていればいい。

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