大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

見上げず、見下げず。その路傍に咲く花のように。

優位的な立場からのもの言い。マウンティング。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

自分が最も忌み嫌っていたそれらが、実は自分も多分に持っていて、無意識にしていたのかもしれないことに気づいて愕然とした翌朝。

墨汁をぶちまけたような不快な気分は、変わらず胸のわだかまりとして残った。

けれども、

「そういえば、子どもの頃から『ぼくのかんがえたさいきょうのやきゅうチーム』とか『ぼくのかんがえたさいきょうまほうランキング』とか、よく妄想してたなぁ…

『カウントダウンTV』や『歌のベストテン』も好きだったし…

野球ゲームやサッカーゲームの選手の能力のパラメーターも異常に好きだったなぁ…

まあ、ランキング好きなのは元からなのかな…」

という半ば諦めの心境もあった。

不思議なのは、そうした性質がありながら、私は昔から競争するのが嫌いだったということだ。

事実、ストレングスファインダーの「競争性」は34資質中の32位だ。

そうしたランキングやマウンティングが好きなら、一度は「てっぺん」を目指しそうなものだが。

思い返してみても、私は幼少期から競争に負けるどころか、ハナからそうした競争に加わらなかった気がする。

つくづく、自分というものは不思議なものだ。

こうだと思っている自分のイメージが、他人から見ると全く正反対だったり、今回の私のように最も忌み嫌う性質を自分の奥底に見つけたり。

生きている限り、その探求は終わらないのだろう。

マウンティングをやめるためには、どうしたらいいのだろう。

もちろん、「シャドウ」はまずは「気づく」ことが大前提であり、それが最も難しい。

「いやー、あのマウンティングをしてくる取引先が、私ってことか…

 自分にその要素がなければ、それに気づくことも傷つくこともないんだろうし…

 でもなー、やっぱりそんなことないと思うんだよなー

 いや、でも無意識的にそうしているとき、あるんだろうな…」

と、気づいてしまえば、感情的に納得していくプロセスをたどる。

ただ、「この自分をもし外に出したら、嫌われて生きていけない」と、強く封じ込めた分だけ、それも自分だと認めるのに抵抗が強くなる。

それを、早くどうにかしたいと思ってしまうのが人情だ。

どうしたもんか。

ふと思ったのは、やはり「困ったときには逆」という法則である。

押してもダメなら、というヤツだ。

与えてもうまくいかないなら、受け取ってみる。
頑張っても徒労感しかないなら、休んでみる。
ものすごく大切なものほど、手放してみる。
一人でうまくいかないなら、誰かを頼ってみる。

もちろん、その逆も然り。

誰かをマウンティングしたり、見下げてしまうことを止めたいのなら、
誰かを崇拝したり、見上げることを止めてみる。

「上」があるから、「下」を見たくなるわけで、
「上」がなければ、「下」もない。

あくまで対等な、自由な関係。

どんな成功者だろうと、

どんな有名人だろうと、

どんなお金持ちだろうと、

どんな素晴らしい事業をしていようと、

どんなすごい技術を持っていようと、

どんなにたくさんの知識のある人だろうと、

どんなにお年を召された方だろうと、

どんな恩義のある人だろうと、

私の「上」ではない、と知ること。

礼儀礼節をわきまえた上で、対等な関係を築くこと。

それは同時に、

どんなに失敗を重ねていようと、

どんな馬の骨か分からない人だろうと、

どんな貧しい人だろうと、

どんなにゲスなことをしていようと、

どんな未熟な人だろうと、

どんな赤子だろうと、

どんな不倶戴天の天敵だろうと、

私の「下」ではない、と知ることに他ならない。

それは、才能や資産や人脈のあるなしにかかわらず、どんな人でもできることなのだ。

ただ、「自分が」そうする、と決めさえすれば。

見上げず、見下げず。

ただ、目の前の人を見る。

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その路傍に咲く花も、そのようにして咲ているのではないか。

どんな人にも同じように、その美しい花弁を傾けているではないか。

その花を見るように、ただ目の前の人を、見よう。

世界はいつだって完璧で。

ただ、そこにある答えに気づくだけ。