大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「愛する」という、刃。

「愛する」ということは、時に残酷だ。

誰かに愛を伝えることは、ときに自分の心の傷をえぐられる。

もっとも深い愛が、もっとも深く心の奥底に沈めた傷をえぐる刃になる。

その傷を癒すのも、また愛なのだが。

関係が近くなるほどに、他人は自分を寸分違わず写し出すプロジェクターになる

見知らぬ他人から始まり、知り合い、同僚や友人、親類、兄弟姉妹・おじいちゃんおばあちゃん、父親、母親。

そして最も近しい関係である子どもやパートナーまで来ると、最も素晴らしく偉大な自分と、最も醜悪で暗愚な自分の落差に愕然とする。

多くの恋愛関係は、お互いに理想の自分のイメージを相手に投影して始まる。

ところが関係性が近く親密になるにつれて、相手が自分の投影したイメージ通りではないことに気づく。

「出逢ったときはこんな女とは思わなかったのに」
「出逢ったころはもっとステキな男だったのに」

お互いがお互いに肯定的なイメージを投影していた関係は、時間の積み重ねとともに容易に正反対のイメージを投影するようになる。

お互いがお互いを好いた・惚れた理由とまったく同じ理由で、お互いがお互いを忌み嫌うようになる。

そうして相手との関係が悪くなり、お決まりの関係性のデッドゾーンに足を踏み入れ、どうしようもなくなって、仕方なく自らの内面に目を向けだすと、パートナーの不満や愚痴は単に自己紹介なのだと気づくようになる。

生理的な嫌悪感を覚える、
梅雨時期のハエのように鬱陶しい、
絶対に間違っている、
どうしようもなく腹立たしい、
人としてどうかと思う、
あの不倶戴天の相手の中に、

私自身を観る。

「あぁ、こんなにも醜い自分がいたのか」、と愕然とする。

自らの分身ともいえる「子ども」に対しても、同じことが言える。

多くの親が、安らかに眠る子ども寝顔に「天使の面影」を見ると同時に、泣き叫び床に転がり癇癪を起こす子どもに「荒ぶる鬼神」を見る。

どちらも、自分自身の双極のイメージを投影しているに過ぎないのだが。

急いでいるときに限って言うことを聞かない、
周りに人がいるときに限って騒ぐ、
片づけたそばから散らかす、
大事なものほど盛大に汚す・・・

まあ、こちらの見なかったことにしていた感情を白日の下に晒すことに関して、子どもは天才だ。

どれだけ隠そうとしていても、肚の底に溜め込んでいた怒りや悲しみ、寂しさ、無価値観、罪悪感といった感情をテンコ盛りで感じさせてくれる。

以前にこちらのエントリーで書いたが、 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

私自身も、子どもと接する中で、ずっと心の奥底に閉じ込めていた「自らの心の闇」の扉を開いてもらってきた。

どうしようもなく愛おしいという尊い感情と、
どうしようもない憎しみという醜い感情と。

関係性が近くなればなるほど、その双極の感情の振れ幅に揺れる。

どうしようもなく愛おしいと、パートナーに愛を伝えたい。
産まれてきてくれてありがとうと、子どもに愛を伝えたい。

誰しもが持つであろうそうした根源的な想いを、素直に伝えるのは本当に難しい。

なぜか。

自分の奥底にいる、「愛されなかったかわいそうな私」という過去の傷に刺さるからだ。

そんなにも愛を伝えるの?

この私は、まったく愛されなかったのに?

え?なんで?なんで?

だから、大切な人に「愛を伝える」というその行為は、同時に恐ろしく鋭利な刃となって、自分の内面にいるその「愛されなかったかわいそうな私」を傷つける。

だから、「愛されなかったかわいそうな私」は、伝えようとした愛を全力で否定して止めようとする。

やめて!やめて!

愛すると、愛されなかった私の傷に触れるから、

お願いだからやめて!

コミュニケーションとは敏感なもので、外に出した言葉よりも、内に秘めた想いや前提といったものが伝わるものだ。

結果、「愛している」という温かな想いと、「あなたよりも大切な人がいるから受け取らないで」という凍えるような悲しい想いの両方が伝わる。

愛していると言われているのに、心底悲しそうな表情が見えたり、愛されているのか、憎まれているのか分からなくなったりする。

相手は、何を受け取っていいのか分からず、混乱する。

受容と拒絶、愛と憎しみ、嬉しさと悲しさが同時に伝わってしまう。

かくも、「愛する」ということは難しい。

「愛する」ということが、同時に癒されていない自分を刺す刃になるのだから。

ということは。

伝えようとする愛が深くなればなるほど、同じだけ自らの心の深淵の光の届かない闇に潜ることになる。

その深い螺旋階段を降りるのには、終わりがない。

自分を癒すことは一生続く。

ただ、「まあ自分の愛はこんなもんかな」と言って階段の途中で降りることをやめてしまう人もいれば、「もっと愛を伝えたい」と感情の荒波に飲み込まれながら、螺旋階段を駆け下りる人もいる。

どちらがいいとか、悪いとかいう話ではない。

それはその人それぞれの生き方であり、生き様なのだ。

どんな感情の荒波も、過去の恋愛の傷も、親子関係の問題も、人生の中の失敗も挫折も、パートナーシップの蹉跌も、「いまから愛を伝える」ための過程に過ぎない。

もしも、その刃が自分に向くことすら怖れず、「愛する」ことをやめないとしたら。

それって、すげえことなんだぜ。