大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分を大切にしていないときに出る、分かりやすい指標。

トイレを我慢したりするとき、
眠いのを我慢したりするとき、

だいたい自分を大切にすることを忘れている。

自分の体の身体的な反応を無視するときというのは、だいたい自分を大切にすることを忘れているとき。

それは、自分を大切にしていない状態の、分かりやすい指標のように思う。

ある外国出身の方が、来日して間もない頃、プレゼントを渡されるときに

「つまらないものですが」

という言葉を添えて渡されたため、本当に「つまらないもの」を渡されたのだと思って不愉快になり、包装紙を開けもせずに捨ててしまった、という笑い話がある。

これは、ある外国出身の芸人の方が笑いを取るためにされていたネタで、どこかで私も聞いた記憶があるのだが、実際には笑い話どころではなく、現実の世界でも同じようなことが往々にして起こる。

すなわち、自分で自分自身を「つまらないもの」や「価値のないもの」、「要らないもの」と認識して、相手に差し出してしまう。

すると、お望み通りに相手から「つまらないもの」「価値のないもの」「要らないもの」として扱われる。

そのような扱いをされて、「やっぱり私はダメなんだ、価値がないんだ」と思い込む。

さらに、自分を卑下して相手に差し出してしまう、という悲しい負のスパイラルに入ってしまう。

「自分が自分を扱うように、世界からも扱われる」と言われるように、自分自身の扱い方、セルフイメージというものは、他人からどう扱われるか、ということに直結している。

自己愛、自己価値、自己肯定感といったことの大切さがよく解かれるが、それがないとこうした負のスパイラルに入ってしまう。

ただ、そうした自分を「つまらないもの」「価値のないもの」と思ってしまうのは、「そう思わざるを得なかった」からであり、そこによいも悪いもない。

ただ、そのときはそうせざるを得なかった。

それだけ。

今から、大切にしていけばいい。

とはいえ、なかなか自分を愛する、というのも難しいものだ。

毎日気分や感情は変わるし、自分を否定したくなるような事が起こったりするし、なかなか今までの習慣は無意識のうちに刷り込まれていたりして、気づくと元に戻ってしまう。

その一番分かりやすい指標が、

「身体的な反応を無視すること」

だと思うのだ。

そう書くのは、ここ最近私自身が身体の声を無視していることに気づいたからだ。

具体的には、
忙しいからといってトイレに行くのを我慢する、
眠いのに何かをしようとする、

ということだ。

汚い話なのだが、トイレで用を足すのにたかだか5分もかからないはずなのに、いろんなことに気を囚われて後回しにする。

あるいは、夜に眠気が来ているのに、まだやりたいことがある、もう少し起きてても◯時間寝れば明日は大丈夫だろう、と起きていたりする。

小さなことかもしれないが、それがすべてのように思う。

以前、カーナビと目標を例えにして、こんなエントリーを書いた。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

車  =  肉体、身体
カーナビ  =  感情、感覚、心
ドライバー  =  魂

とするならば、一番最初に大切にすべきなのは「肉体、身体」である、と。

ディズニーランドや中京競馬場やアンコールワット遺跡や三つ星レストランや、どんなにワクワクする目的地が行先に待っていたとしても、

そこへたどり着く車のタイヤがパンクしていたり、エンジンがオーバーヒートしたり、ブレーキが効かなかったりしたら、

目的地も何もない。

ナビの案内よりも、ドライバーの意見よりも、まずは車体(身体)の声を、最優先で聞くべきなのだ。

それが、もっとも大切で、もっとも根源的な「自分を愛する」ということなのだと思う。

自分を愛する、ということ。

それは難しく考えるよりも、

身体の声に従う、ということ。

どんな小さな声にも耳を傾ける、ということ。

身体の声はすべて正しい、ということ。

そこから始めてみるのも、いいのかもしれない。

と書いておきながら、書き終えるまでトイレを我慢していたので、さっさと行ってこようと思う。