大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

眠れぬ夜に「かなしさ」と「いとしさ」について想うこと。

美しさが、残酷さや卑猥さの際にあるように、

愛しさとは、悲しさの際にあるのかもしれない。

ぼんやりと目が覚めると午前1時過ぎだった。

日付は4月1日に変わった。

会社や学校といった多くの組織で新年度になり、いろんなことが変わる日。

まして、今日は新しい元号が発表される日らしい。

私の身辺も、この2週間ほどで大きく変わった。

季節がめぐり、花粉症らしき症状を発症していること。

仕事の上での変化や、子どもたちが保育園を卒園したこと。

変化に自分の意識が追い付かないのだろうか。

身体の奥の芯が疲れているような気がして、早めに床に入ったが、そういう日に限って眠りが浅かったようだ。

仰向けのままぼんやりと天井をながめながら、寝返りを何度か打ったが、なかなか眠りは訪れなかった。

心の底に、澱のように溜まったしこりが、それを妨げていたように感じた。

重りのように、そのしこりは数日前から心を締めつけていた。

日々の暮らしの中で、それをやり過ごしていたが、それが灰汁のように浮かんできたのかもしれない。

はじめは、暴力的な、怒りだった。

いつもなら何でもないことに、感情がささくれ立つ。

紙にいまの感情を書き殴ったりとしているうちに、その怒りはかさぶたのようにぱりぱりと剥がれていき、やがて別の顔が私の内面から覗きだす。

悲しさ。

いつも、そうだ。

何度でも、私は同じような階段を歩いている気がする。

昇っているのか、降りているのか。

ただ、いつも怒りの先には、凍えるような悲しさと出会う。

春というのは、雪が溶け始め、花が咲き乱れ、希望に満ちあふれた季節であるのだが、同時に私にとっては悲しみの季節でもある。

いつも私は春に訪れる出会いよりも、別れの方に心を奪われる。

それは、母親と悲しい別離をした季節だということもあるのかもしれないが、

もう二度と戻らない時間、
二度と見られない風景、
二度と会えない笑顔、
もう見ることの叶わない風景、

そういったものは、いつも私の胸を締め付ける。

それは、未来に描く夢や希望が叶わぬものだと言われるよりも、よっぽど心が痛むのだ。

そもそもが夢の無い男だったというのもあるのだが、この先において、叶わない夢や希望があったところで、大した話ではないと感じてしまう。

けれど、戻らない過去、失われた大切なもの、というのは、どうにも私の心を狂わせるのだ。

ずっと私の心の奥底のやわらかい場所に刺さった楔は、日々失われていく時間とともに大きくなるように感じる。

いつか、子どもたちも不器用なツナサンドとタマゴサンドを思い出すときがくるのだろうか。

今日という日が、いつかそのような思い出に変わることが、切なく、また無性に悲しく、私の胸を締め付ける。

悲しい。

ふたたび時計を見ると、1時半を回っていた。

布団を頭まで被ってみるが、眠りはまだ私を癒しに誘ってはくれなかった。

ある方に教えて頂いたのだが、遥か昔は「愛しい」と書いて「かなしい」と呼んでいたそうだ。

古語辞典を引くと、「愛し=かなしい」の項には「心ひかれる、心にしみて重い、強く心が動かされる」との意味が出てくる。

いとしさ

かなしさ

一見、相反するように見えるこの感情を、古来より私たちの先祖は「愛しい」という語を使って表現してきた。

陰と、陽。
生と、死。
時間と、空間。
満月と、新月。
昼と、夜。

いとしさと、かなしさ。

それらに分け隔てられた今生の世界から、ふとした瞬間にどろどろになった異なる世界への郷愁を覚えることが、ある。

ほのかにあたたかでやわらかな、いとしさ。

こごえるような、身を切るような、かなしさ。

その両極に触れたとき、人は日常的な感覚の隙間から、始原的な郷愁を覚えるのかもしれない。

だれもが生まれる前にいた、そのすべてのものがごちゃまぜの一つになった世界への郷愁。

それを、古来より私たちは「愛しい」と表現してきた。

一回転で昼夜を分ける太陽。

一晩で中天をめぐる星々の瞬き。

潮の満ち引きを繰り返す海。

美しい横顔を日々変えていく月。

自らが枯れることで新しい命を芽吹かせる草花。

その内部に陰陽と生死を孕んでいるからこそ、自然もまた美しい。

古来より人はその自然の移ろいに「愛しさ」を感じ、かなしみの中にもいとしさを、いとしさの中にもかなしさを、見い出してきた。

この世から「かなしみ」が絶えることはないけれど、私たちの先祖は「愛しさ」という言葉を伝えてきてくれた。

その想いが、言葉となり、唄となり、舞となり、絵となってきた。

この世界の「かなしみ」の奥底にある、「愛しさ」。

どうやっても、結局だれもが最後には、そこに到達するのだろう。

その真実を、きっと生き様で魅せられるようになる。

七分咲きの桜と同じように心惹かれた、今朝の路傍のあの花のように。 

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その花の色を思い出しながら、私はまた寝返りを打った。

見慣れた白い壁が、暗闇の中にぼんやりと浮かんだ。

そろそろ眠れそうだ、と思った。