気付けば、今日で断酒146日目である。
昨年の11月の頭から始めた断酒も、これでもうほぼ5か月。
始めた当初は「とりあえず、気が向くまで続けよう」という緩い気持ちで始めたが、なんだかんだで5か月続いている。
最近はよく「いつ再開するの?」と聞かれるが、それもまた心の赴くままにしておこうと思う。
飲みたくなる時はたしかにあって、依頼されていた文章を納品した際、何とか寄稿する記事を書き上げた際、ふと一杯やりたくなる。
けれど、それもペリエなどの炭酸水や、ノンアルコールビールを一本飲んで、喉を潤すと満足してしまうのだ。
まあ、飲んでもいい。
「今日」のところは、というか、「いま」は飲まない、という選択の繰り返しだ。
=
お酒から離れると、逆に「お酒」というものについてよく見えることがある。
人は不在になったときに、その存在の大きさを感じるように。
先般、このエントリーで断酒の身体的な影響について書いた。
端的に言えば「煙草と同様に、酒をやめると食欲と性欲が増す」ということなのだが、このエントリーを書いてから、それはなぜなのだろうと考えていた。
食欲と性欲という、人の生とは切り離せないもの、言ってみれば「生そのもの」ともいうべきものが、なぜ酒を飲むと抑圧されるのだろう。
そして、その「生そのもの」を抑圧するようなものが、長い長い人の歴史の中で文化として残ってきたのだろうか?
それを考える中で、一つ思い出したことがあった。
うろ覚えなのだが、以前に読んだ小説か文章のなかでこんなフレーズがあった。
煙草とは、緩慢なる自殺である
人間には、「エロス」と呼ばれる「生きようとする意志」と、「タナトス」と呼ばれる「死に向かう意思」、その両方が存在すると言われる。
二つの相反する感情を同時に抱くことを「アンビバレント」と呼ぶが、人の中には両極の感情が同時に存在しうる。
そして、その両極でいつも揺れるのが、人という存在である。
どちらかに振れようとすると、もう片方は全力をもって引き戻しにかかる。
その綱引きは、とても苦しい。
憎悪の炎で身を焦がすくらい愛おしい、という感情を誰しも一度は抱いたことがあるのではないだろうか。
あの人を完全に嫌いになってしまえれば、楽になるのに。
あの人のすべてを受け入れ、愛することができたら楽なのに。
その葛藤を、人類は何千年と続けてきたのだろう。
ただ、憎悪の炎で身を焦がすくらい憎めるということは、それだけ深く愛することができる、ということの証左でもあり、深いパートナーシップが築ける、ということでもあるのだが。
両極からの綱引きを解消するただ一つの方法は、「統合」である。
憎しみの業火ですべてを焼き尽くすくらい憎んで、
宇宙の最果てよりも広く大きな愛で愛し尽して、
その飽きるほどの繰り返しの果てに、 人は執着の外れたひとかけらの愛を見つけるように。
=
少し話が逸れてしまったが、おそらく、私がお酒を飲んでいた理由というのも、緩慢なる自殺(=タナトス)だったのではないかと思うのだ。
先ほどの綱引きの例で言えば、「エロス」=生きる意志が強ければ強いほど、その対極にある「タナトス」=死に向かう意思も強くなることになる。
両者はバランスを取り合うからだ。
抑えられない「エロス」=生きる意志を持て余してしまうと、お酒を飲んで「タナトス」=死に向かう意思を強めることで、中和しようとするのではないだろうか。
もちろん、何の証明もできない話であり、それこそお酒のツマミにしかならない考察ではある。
私がお酒で酔っ払っていたのは、ずっと「寂しかった」からだとも思う。
けれども、生命力(=エロス)にあふれる人ほど、お酒をよく飲むことで、その抑えきれない生命力を中和しているというのは、一考に値するような気もする。
煙草もその類いのものなのかもしれない。
=
もしも、ここまで述べたような、「エロス」と「タナトス」との綱引きとしてお酒を使うことがなくなったら。
もしも、その綱引きが「統合」されたとしたら。
そのとき、人とお酒の付き合い方はどうなるのだろうか。
「酔う」ためにお酒を飲む人は少なくなり、純粋にその味と香りといったお酒の「味」が好きな人だけが、お酒を欲するようになるのかもしれない。
そのときお酒の飲み方は、ワインのテイスティングのように、口に含んで飲み込まない、という飲み方になるのかもしれない。
・・・などと、酔っ払ったようなことを妄想しながら、今日も断酒は続けられそうである。