昨日の「キンコン西野さんの近畿大学卒業式スピーチに寄せて」を書きながら、少し考えたことを書いてみたい。
昨日のエントリーの中の白眉である、西野さんのこの言葉。
僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできないけれど、過去を変えることはできる
「時の流れ」というのは、実は私たちが思っている方向と、逆に流れているのではないだろうか。
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私たちは、普通時間の流れは「過去」から「未来」へと流れていく、と思っている。
いまこの瞬間はすぐに過ぎ去り、「過去」のものとなる。
今日の眠りにつけば、明日という「未来」が訪れる。
時間の流れとは、「過去」から「未来」へと真っ直ぐに引かれた線の上を、カタカタと無機質に流れていく。
「時の流れ」と聞くと、私たちはそのようなものを想像してしまう。
このイメージを、いったい私たちはどこからもって来たのだろう?
西に沈んだ太陽が、朝になればまた東から昇るという経験則だろうか?
それとも、何かの授業で習った「時間」のイメージか何かだろうか?
減りはすれど、増えはしない日めくりカレンダーの画像だろうか?
それは分からないが、それでも時間というものが「過去」から「未来」へと一定の速度を保って、矢印の方向へと進むベクトルのようなものだというイメージは誰にでもあるように思う。
だが、ほんとうのことろ、それは逆なのではないか、と西野さんのスピーチについて書いていて、考えさせられる。
ほんとうのところ、私たちにとって変えることができるのは「未来」ではなく「過去」なのではないだろうか。
言い換えるなら、時間というものは「未来」から「過去」へと流れているのではないだろうか。
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本来、私たちが知覚できる時間というのは、「いま」この瞬間のほんの一瞬である。
コンマのあとに何個かゼロが並ぶくらいの、刹那のような時間。
それ以外の時間、「過去」も「未来」も実は人の頭の中にしか存在しないイメージであると言える。
「過去」とは、私が覚えている(と思っている)記憶や、どこかで見聞きした知識や情報をごった煮にしたものだ。
「あの当時父は家族を愛しておらず、疎遠になっていて、休みの日もロクに顔を合わさなかった」
という過去が、自分も社会に出てみると
「休みの日も仕事を精一杯頑張って、愛情を示そうとしてくれていたんだ。父は、深く家族を愛していた」
という過去に書き換わったり、
「母からは小言や愚痴ばかりで、私へ愛情表現の言葉の一つも与えてくれなかった」
という過去が、
「戦後の混乱期に必死で生きた祖母に、なかなかかまってもらえなかった母は、子どもに叱ったり躾を厳しくすることでしか、愛を表現できない人だったんだ。母もまた、寂しかったのだろう。けれど、寂しいなりに私を深く愛していたんだ」
と書き換わることなど、よくある話だ。
一方で、「未来」とは、人の頭の中にだけ存在する「未確定であり、ほんとうはそうなるかどうか分からない」イメージのことである。
今日と同じように日が昇り、家族と顔を合わせることができ、友人からメッセージが届いて、同じ時間に家を出て・・・ということを想像しているだけであり、確実にそうなるわけではない。
それこそ、いろんなことが起こると「当たり前の日常のありがたみ」を実感するように、「未来」とは自分自身の都合のいいように解釈、予測したイメージに過ぎない。
それは天災や不幸な出来事のようにネガティブなものばかりではなく、幸運や輝かしい成功なども「ありえない」として、勝手に可能性を排除してしまっているのかもしれない。
私たちにとって、時間は常に「いま」しかない。
そのほんの刹那のような「いま」も、「いま」として認識した途端に、私たちの後ろに流れて「過去」のものとなる。
時間は常に、後ろへ、後ろへと流れていく。
「過去」から「未来」へと、前へと流れていくのではないのだ。
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「いま」という瞬間における決断を積み重ねてきた結果が、私の「過去」となり、私の現在立っている場所を形づくっている。
ということは、私たちが存在する「いま」において、肚をくくって「こう生きる」という決断をする、ということは、「過去」を照らし、その姿を大きく変容させる。
冒頭の西野さんの言葉の通りだ。
僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできないけれど、過去を変えることはできる
そのようにして「過去」が変わると、「いま」私が立っている場所の形も変わってくる。
そうすると、その変わった「いま」における決断がまた変わっていく。
そんな風にして、ゆっくりと人生の舵は切られていくのではないだろうか。
コーチングなどの場面において、よく言われる質問がある。
それができるようになったのは、なぜですか?
と自分に問う、という質問である。
この問いは、挑戦しようとする何かを「既にできている」自分をイメージして、その地点から「過去」を捉えなおしてみる、ということなのだろう。
「未来」から「過去」に流れている、という時間の流れを、うまく使った質問と見ることができる。
あるいは心理学において、
感情には時間という概念がない
と言われることがある。
これは、そのとき未消化だったり、抑え込んでしまった感情は、どれだけ時間が経っても感じて昇華することができるし、逆に言えば感じ尽していない感情はいつまでも肚の底でくすぶってしまう、とも言える。
これも、「いま」という地点から「過去」に感じた感情を解放する、あるいはそのとき傷ついた小さな私を救いに行くことができる、と言っているように思える。
そのときの時間は、「過去」から「未来」ではなく、「未来」から「過去」へと流れているように思うのだ。
やはり、時間は「未来」から「過去」に向かって流れている。
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昨日のエントリーでも書いたが、スティーブ・ジョブズは
将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです
と語った。
まさに、時間は「未来」から「過去」へと流れていることを表しているように感じる。
だとするなら、私たちができることは、
この出来損ないで、
失敗ばかりで、
誰にも認められなくて、
一人寂しく除け者で、
嫌われてばかりで、
何をしてもうまくいかなくて、
理不尽なことばかりで、
他の誰かの人生と交換したくてたまらない、
この私の「過去」の道のりのすべてに、
「いま」ここで、
誇らしげに祝福を与え、
その路傍の小さな草花まで愛することなのだろう。
私はこの人生で、ほんとうによかった。
もしも輪廻があったとしても、次もまたこの愛と喜びに満ちた人生を必ず選ぶよ、と言えるまで。
それは、限られた成功者や、才能や境遇・環境に恵まれた人や、完全な人だけができる特殊なことではない。
きっと誰にでもできる。
そう、私でも。
そして、あなたでも。