大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

どうしたって、あなたは幸せになるから。

私を含めて、多くの人にとって本当に怖いのは「不幸になること」ではなく、「幸せになること」だ。

 

これは逆説的に聞こえるが、一つの真実のように見える。

 

不幸でいることにはメリットがたくさんあるから、なおのこと人は不幸でいたがる。

 

けれど、大きな勘違いがある。

 

ほんとうのところ、人はどうやったって、幸せにしかならない。

 

だから、不幸でいようとすることは無理がある。

 

不幸でいることを、あきらめよう。

 

 

何かの拍子に、ふと。

 

こぼれんばかりに山盛りになった幸せが、その人のもとに差し出されることがあるとする。

 

なみなみと注がれた愛情なのか、

全身に浴びるほどの称賛なのか、

使い途が思い浮かばないほどのお金なのか。

 

それは分からないが、あなたはそれをニッコリと笑顔で受け取れるだろうか。

 

よしんば受け取れたとしても、それを当たり前のことだと受け入れられるだろうか。

 

そのお皿を受け取って、一瞬幸せな気分を味わっても、

 

「こんなに簡単に幸せになってしまって、いいのだろうか?

 いや、普通に考えて、そんなはずはない」

 

という疑問を抱き、その通りに現実を書き換えてしまう。

 

そのお皿をそっとお返しするか、

激昂して中身ごとお皿を叩き割るか、

あるいは怖くて逃げ出すか・・・まあ、そんなところだ。

 

人は不幸になるのが怖いのではない。

 

幸せになることを、人はなによりも怖れる。

 

「こんなに簡単に幸せになってもいい」

という真実、あるいは、

「こんなに簡単なことでお金を稼いでもいい」

という才能は、なかなか受け入れ難いものだ。

 

それを邪魔しているのは、復讐とその裏返しの罪悪感に他ならない。

 

 

人が選ぶ行動には、それを選ぶ理由があるとして。

 

なぜ、人は不幸でいたがるのだろうか。

 

不幸でいることに、メリットがあるからだ。

 

では、不幸でいるメリットとはなんだろう。

 

それは、「他責でいられる」、ということ。

「自分の人生を生きなくてもいい」、ということ。

 

まぁ書いていて、耳が痛い話ではあるのだが。

 

人から尊重されなかったり軽んじられたり、

愛されなかったり、

あるいは稼げなかったり、

理不尽なことばかりが起きたり・・・

 

そんな状況にあると、どうしたって人は「まだ本気をだしていないだけ」「チャンスがないだけ」「周りの環境に恵まれていないから」とか、言い訳がしたくなる。

 

それは自然な反応だし、否定することでもない。

 

見つめるべきは、そのもっと奥のほうだ。

 

環境にも人にも恵まれず、チャンスも無くて、本気を出せる舞台もない私。

大変そうで、かわいそうな私。

 

そういった私でいることは、無意識的に「こんなに私はかわいそうだから、このくらい貰ってもいいよね」という交換条件でようやく受け取ろうとしている。

 

何かを受け取るためには、痛みなり苦痛なり何かを差し出して同情や憐憫を引かないといけないとしたら、誰しも進んで受け取ろうとしなくなるのは、当たり前のことだ。

 

できるだけ少ない痛みと、その代償として与えられる、ほんの少しの報酬。

それで十分な、かわいそうな私。

 

そんな私になることを「自分自身で」選んでいるとしたら、どうだろう。

 

そんな私でいなくてはならない理由は、どこにあったんだろう。

 

 

その理由の一つは、復讐と呼ぶものかもしない。

 

誰への?

 

理不尽な上司かもしれないし、信じていたのに私を裏切った友人かもしれないし、ひどい振られ方をしたあの彼女かもしれないし、いつも私を軽んじてきた兄かもしれない。

 

それらの怒りを注意深く見ていくと、その表層の奥にさらに別の誰かへの怒りが現れる。

 

その発掘作業の行き着く先の終点は、両親であることが多い。

 

親がこうしてくれなかった!

親が愛してくれなかった!

親が望むものを与えてくれなかった!

親が私を捨てた!

 

ずっとそんな怒りをくすぶらせたまま、その怒りの矛先を変えてぶつける、ということを人は往々にしてしてしまう。

 

「どうしようもなくかわいそうな私」でいることは、彼らを困らせ、悲しませる最大の復讐となるから、なかなかそれはやめられない。

 

そして、その復讐は裏を返せば「親の理想通りに生きられなかった」自分を裁くということと鏡合わせとなっている。

 

作用・反作用の法則通り、誰かを責めるという刃は、必ず罪悪感という諸刃の刃となって自分自身を傷つける。

 

お父さんの理想通りの道を歩きたかったけど、歩けなかった。

お母さんを笑顔にしたかったけど、力が足りなかった。

 

その罪悪感こそが、かわいそうで自分に何も与えない私をつくりだす。

 

その自分を許すことができると、復讐は終わり、罪悪感も薄れる。

 

人に、優しくなれる。

 

何もできない、そんな自分を受け入れること。

何もしないことに、許すこと。

同情も憐憫も何の対価もなく、遠慮なく受け取ること。

自分でいることを、祝福すること。

 

簡単に、幸せになっていいと許すこと。

 

そのために、まずは目の前の現実を受け入れること。

すべては、わたしが選んだことなのだ、と。

 

 

私も含めて多くの人は、「何もしないこと」に罪悪感を覚える。

 

言い換えれば、「自分であること」への怖れ、とも言える。

 

それは、親から自立できていない、ということの証左なのかもしれない。

 

親の庇護を離れて、「自分である」ということ。

 

「与えられる」幸せではなくて、自分で「感じる」幸せを求める、ということ。

 

罪悪感は根深い感情で、それを完全に取り除くことなんて求めなくていいと思う。

 

幸せになることが怖くて、受け取り拒否をたくさんしたらいい。

 

飽きるほど拒否しても、それ以上に無限に世界は与えてくれるから。

 

その過程は、いつか誰かの罪を許すために、いつかたいせつな誰かに大きな愛を与えるために必要な時間だ。

 

復讐するくらい激しく、罪悪感を覚えるくらい深淵な、その愛を熟成させる時間だ。

 

どれだけもがいても、暴れても、足掻いても、自棄になっても、

 

あなたは幸せからは逃れられないから。

 

幸せになってしまうから。

 

すでに許され、愛されているから。

 

大丈夫だから。

 

いま、その瞳にどんな現実が映っていても、いつかその愛を想う日が訪れる。

 

あたなが「自分であること」を、喜んでくれる人がいる。

 

何の見返りもなく、かわいそうな私だから恵んでもらうでもなく、ただ「あなただから」幸せになることを、許そう。

 

 

もう降参して、不幸になることをあきらめよう。

 

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今日は「啓蟄」。

 

冬ごもりしていたトカゲやミミズも、春の陽気に誘われて長い冬の眠りから覚めて、土から出てくる節気。

 

何をしていても、月日が流れればその節気はやってくる。

 

幸せになる、というのは、そんな「当たり前」のことなのかもしれない。

 

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